神の国の民
山上の垂訓
イエス・キリストは生前,多くの民衆に対して,神の子が基準とすべき生き方を語りました。俗にいう「山上の垂訓」です。ある人は言いました,「山上の垂訓は,実践不可能な教えである」と。そうかもしれませんし,そうでないかもしれません。
確かに,生まれながらの肉的人間には不可能かもしれません。が,己の神性に目覚めた霊的人間には可能と信じます。なぜなら,イエスの生涯が,まさしく山上の垂訓の実践であったからです。イエスは,最初の神の国の市民と言えるでしょう。
神の国の倫理
貧しい者
神の国の市民は,貧しい者です。この場合の貧しさとは,単に物質的・経済的な困窮ではありません。所有権を放棄した者の意です。アフリカ大陸に奉仕したアルベルト・シュヴァイツァーのように,自分の時間・財産・才能を神の国建設のために捧げることです。ある人は言うかもしれません,「所有権は近代民主政治の基本である」と。そうです,私的所有権は人権の土台です(ジョン・ロック)。しかし,この人権主義とそこから派生したヒューマニズムが,世界を蝕み,自然を蝕み,心を蝕んだではありませんか。
私たち人類は,人権宣言を発して人間中心主義を賛美しつつ,神の主権を忘れたのです。神の国では,人権宣言ではなく神権宣言が発せられねばなりません。私たちの人生は,私たちの所有物ではなく,神の所有物です。つまり,私たちの生命は神にレンタルされたものでありまして,神に返納しなければなりません。神の主権を重んじること,これがイエスのいう貧しさの意味です。
悲しむ者
神の国の市民は,悲しむ者です。この場合の悲しみとは,自分の境遇に落胆することではありません。世の不条理や罪悪のために,苦悩を担うことです。日本を滅亡から救うため,日本社会の堕落を指摘し,全国民を敵に回した内村鑑三。彼は,日本をこよなく愛しながら,売国奴と罵られました。愛する者に憎まれる,これほど皮肉な話があるでしょうか。しかし,神の国の市民は,正義のために嫌われる覚悟を持たねばなりません。
キリストの弟子は,国を愛して国に憎まれ,人を愛して人に疎んじられ,神のために生きて異端と嘲られる存在なのかもしれません。そう,他ならぬイエスが,神を愛して「神を罵る者」と誤解されたように。
柔和な者
神の国の市民は,柔和な者です。この場合の柔和とは,ありきたりな親切ではありません。一切の暴力を放棄し,愛によってのみ生きることです。インド独立の英雄ガンディーが,非暴力主義によって大英帝国を打倒したように,隣人を力でねじ伏せる一切の行為を放棄することです。
イエスは,あらゆる奇跡を起こし,多くの群衆の支持を得ましたが,敵対者に決して暴力を用いませんでした。天から火を降して焼き殺すことなく(エリヤ),群衆を煽って暴動を起こすことなく,愚直に真理を説き,愚直に人を愛して,最後には十字架の死に至ったのであります。悪は,悪によってますます燃え上がります。愛とは,悪を悪で報いず善で報い,悪を自滅させ平和を取り戻す行為です。つまり,キリストの十字架上の死は,単なる偉人の死ではありません。愛が悪に打ち勝った,柔和が憎悪に打ち勝った勝利宣言なのであります。
義に飢えかわく者
神の国の市民は,義に飢えかわく者です。すなわち,神の国とその正義を欲する人間です。ロシアの文豪ドストエフスキーは,非常にだらしない人間だったと伝えられています。ギャンブル狂で,女性にだらしなく,湧き上がる憤怒を抑えられない人間。しかし,彼の人生は,最初から最期まで正義を求めた生涯でした。狂うほどに正義を求め,懊悩するほどに神の国の義を求めた人間。それは,彼の文学作品によく表現されています。「神の国とその正義とは何か?」これが,「地下室の手記」から「カラマーゾフの兄弟」に至るドストエフスキー文学の一貫したテーマだったのです。
生まれながらの人間は利を求めます。しかし,神の国の市民は義を求めます。真理を求めて勉学し,真理を求めて働き,真理を求めて祈り,真理を求めて死んでゆく。凡人から見れば狂人です(なぜなら,真理には1円の価値もありませんから)。しかし,神の国では正常人です。
憐れみ深い者
神の国の市民は,憐れみ深い者です。この場合の憐れみとは,悲惨なニュースを聞いて「可哀想に」と呟くことではありません。そんな一時的感情ではない。本物の憐れみとは,一種の意志です。貧しい労働者や不幸な女工と共に生き,虐げられている人々に一生涯寄り添ったシモーヌ・ヴェイユ。彼女のように,社会の底辺で喘ぐ人々と共苦することです。憐れみ深い人間は,あらゆる権利を剥奪された難民の苦しみよりも,自分の歯の痛みを優先することはありません。憐れみ深い人間は,貧苦に喘ぐシングルマザーの嘆きを無視し,富者の華麗な生活に憧れる者ではありません。
黙示録に書いてありますように,神の国では,すべての人が神を拝しています。どうやって神を拝しているのでしょうか?教会堂に集まって儀式をするのでも,跪いて何らかの物体を拝むのでも,偉い人の説教を聞くことでもありません。人を愛することです。イエスは生前,旧約聖書のホセア書を好んで引用しました。「わたしは憐れみを好むが,儀式を好まない」すなわち,人を愛さない者は神を信じない者であり,神を信じない者は神の国にふさわしい人間ではないのです。
心の清い者
神の国の市民は,心の清い者です。心の清さとは,善人を装うことではありません。本当の意味で,心の底から,善人になることです。神を求めることです。「暗夜」の著者である十字架のヨハネのように,キリストの心を心とすることです。他人の欠点に目を注がず,自分の心の汚れを取り除く者です。日本語には,こういう諺があります。「清い水に生きた魚は棲まない」「清濁合わせ飲む」これらは,世を上手く渡るための肉的教訓に過ぎません。神の国の市民は,心の濁りを放置して,鯰やドジョウの類を住まわせようなどとは考えません。神の国の市民は,たとえ孤独になろうとも,心を透明になるまで清くし,水面に美しい月(神)を映さんとする者です。
普通の人間は,アルコールやギャンブル・ポルノなどによってストレスを発散させます。つまり,肉的快楽に酔います。しかし,神の国の市民は,聖霊に酔います。神の声に耳を澄ませ,天使と対話し,使命遂行の計画に休日を費やします。
平和をつくり出す者
神の国の市民は,平和をつくり出す者です。現代社会のように,罪といちゃいちゃした偽りの平和ではありません。正義に貫かれた真の平和であります。ナチス・ドイツに対抗した牧師ボンヘッファーのように,真の平和を実現するため,他者と交わり,善によって悪と戦うことです。神の国の民は,この世の真っ只中でキリストに服従し,サタンに宣戦布告する者です。
肉的な人は,キリストに愛されることを願います。しかし,霊的な人は,キリストを愛し,その遺志を継ごうと欲します。肉的な人は,罪を贖われ,口を開けて天から降る神の恵みを待ちます。しかし,霊的な人は,他人の罪を贖うため,神なき世界で戦うことを欲します。罪に耽る惰弱な人々は,彼のことをこう蔑視するでありましょう。「ああ,彼は空気の読めない奴だ」と。そうです,堕落した世に抗する神国の民は,本質的にKYなのであります。憎まれる覚悟,疎外される覚悟なくして,キリストに服従することはできません。
義のために迫害される者
神の国の市民は,義のために迫害される者です。キリスト教信者のように,この世の苦しみ・悲しみに遭遇して,神に縋るのではありません。逆に,神を信じることによって,この世の苦しみ・悲しみを引き受けるのであります。福音を復興しようとして,欧州全土を敵に回さざるを得なかったルター。彼のように,正義のために責められる者がキリスト者です。キリスト者とは,十字架を負わねばならない存在です。この場合の十字架とは,受け身の苦難ではなく,キリストに固着して生じる厳しい運命です。
福音書に記されているイエスの教えは,最初から最後まで一貫しております。最初に「わたしについて来なさい(マルコ伝1-17)」と教えたイエスの宣教は,「わたしについて来なさい(ヨハネ伝21-22)」で締めくくられました。では,イエスの教えを実行するために,私たちはどうすればよいのでしょうか?それは,自分を忘れてキリストを知ることです。それは,人生のコペルニクス的転換であり,「計画可能な見通し」から「計画不可能な闇」へ歩み出すことです。
結論
つまるところ,神の国の市民とは,キリストです。私たちすべてが,小キリストになることです。キリストだけが私に直接的であり,キリストがすべての仲介者になることです。私は,キリストを通して神を信じ,キリストを通して他者を愛し,キリストを通して世界に向き合います。キリストのみと直接的関係に入る時,人間は初めて,神の子としての人格に目覚めるのです。
この世の市民は,<われ―それ>関係の中で生きています。すべてを私物化し,非人格的で無機質な生涯を送っています。しかし,神の国の市民は,<われ―なんじ>関係の中で生きています。神の主権を認め,己の神性に目覚め,使命遂行のために生きています。生まれながらの私は,肉的なこの世の市民です。願わくば,キリストが私をして,神の国の市民と化して下さいますように。栄光はただキリストにあれ,アーメン。
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