一億総老人社会
20世紀の三大発明
ある歴史家は,20世紀を革命の世紀と呼びました。なぜなら,人間の世界観を変革する3つの発見があったからです。
第一に,量子力学の誕生です。プランクの論文(1900年)により切り拓かれた量子力学は,ハイゼンベルク,シュレーディンガーらを経て,ミクロ世界の物理法則を解明しました。
第二に,精神分析の誕生です。1900年に発刊されたフロイトの「夢判断」により,全く未知なる無意識の世界が発見されました。心理学の研究は年々歳々進歩し,フロイトの弟子ユングにより,集合的無意識の世界を解明するに至りました。
第三に,正文批評の成立です。正文批評とは,簡単に申し上げれば,聖書の批判的研究です。1898年,ネストレとアーラントにより,すべての写本を比較考量できる「ギリシャ語原典聖書」が誕生しました。ディベリウスの「福音書の様式史研究(1919年)」により新約聖書学は急速に発展し,ブルトマン,コンツェルマンを経て,神学に科学的メスが入りました。
量子力学の誕生とミクロ世界の発見により,私たちが生きる世界の物理法則は相対化されました。精神分析学の誕生と無意識の発見により,私たちの日常的な意識世界は相対化されました。そして,正文批評の誕生と聖書の原典研究により,現代文明の土台である世界宗教が相対化されました。
新しい宗教的地平
ブルトマンの様式史研究とは,聖書を徹底的に分解・分析する方法です。ブルトマンの主著「共観福音書伝承史」によりマルコ伝・マタイ伝・ルカ伝は徹底的に分析され,「ヨハネの福音書」によりヨハネ伝は徹底的に解析されました。しかし,ブルトマンの科学的手法は,古代的迷信を排除すると同時に,聖書の根本的メッセージをも解体してしまいました。
ここで登場したのが,コーラン研究の権威・井筒俊彦です。彼は,経典の文章を分解するのではなく,言葉の裏にある意味を把握しようとしました。これを「意味論的研究」と呼びます。彼は,この意味論的手法を用いて様々な経典を研究し,すべての宗教・哲学が一致融合する共時的構造化(異質な宗教が共生する世界観)を目論みました。井筒俊彦は,仏教・イスラム教・儒教・道教・ギリシャ哲学を学び,それらを統合する「東洋哲学」を構想したのです。
※東洋哲学とは,アジア人の哲学という意味ではなく,「東から昇る太陽のように全ての宗教を包含する思想」という意味です。
残念ながら,彼の構想は突然死によって中断されました。しかし,もし彼が生き長らえたとしても,東洋哲学の構想は失敗したでしょう。なぜなら,井筒俊彦は,聖書を毛嫌いしていたからです。キリスト教に対する嫌悪感,これは,青山学院大学高等部時代に培われたと伝えられています。が,真相は分かりません。いずれにせよ,神の子イエス・キリストなくして,宗教的調和を成就することはできません。
私の志は,頓挫した東洋哲学の構想を成就することです。すなわち,井筒俊彦が着手しなかった「聖書の意味論的研究」を通して,諸宗教が共生できる思想空間を構築し,新しい文明の宗教的土台を創造することです。
命の使い方
私の使命は,キリスト(キリスト教ではない!)による全宗教の統合です。人は言うかもしれません,「それは不可能である」と。そうかもしれませんし,そうでないかもしれません。いや,きっと失敗に終わるでしょう。特別頭が良いわけでもなく,神学や聖書学の専門家でもない私が,このような偉業を成し遂げられるはずがありません。
しかし,私の人生が全て無駄に終わっても,私は一向に構いません。そもそも,いつからでしょうか?人間が“不可能なこと”を回避するようになったのは。若者と老人の違いは,肉体的外形ではなく,心が燃えているかどうかです。不可能(impossible)に挑戦する者,それが若者です。可能なこと(possible)を処理する者,それが老人です。私は生涯,不可能に手を伸ばし続け,無謀な若者でありたい。現代の青少年のように,コスパ(金銭的効率性)とタイパ(時間的効率性)を気にする老人にはなりたくない。失礼とは存じますが,彼らからは精神的加齢臭がプンプン臭うのです。
人間の本質は,「自分の命を何に捧げるか?」にかかっています。時間の使い方も金の使い方も,枝葉末節に過ぎません。キリストの兵卒として最期まで戦う。これが私の命の使い方です。私が欲しいのは,この世の栄光ではありません。私が欲しいのは,死後わが主から下賜される棘(いばら)の冠です。
参考書籍です。