道元の悟り~日本文化の独自性~
現代文明の行き詰まり
西洋文明の弱点は,身体(σωμα)を忘れた抽象です。デカルトの心身二元論以来,欧米人は心を重視し,身体を軽視してきました。ヘーゲルに代表される観念論は,身体の否定です。マルクスに代表される唯物論は,肉体の観念化です。いずれにせよ,西洋哲学は,抽象的世界という雲霧に迷い込んでしまったのです。こうした現代文明の処方薬となるのは,徹底的に身体(現実)を重視した道元の悟りではないでしょうか。
※昨今のLGBTQ+の過度な強調も,身体軽視の結末と言えるでしょう。
身体の変容
身心脱落
生まれながらの人間は,身体を単なる生理的器官と認識しています。つまり,身体は栄養摂取の器官であり,これを「生理的身体」と称します。この時,人間は「全体から切り離された個」であり,分節化された世界に生きています。ちなみに「分節化された世界」とは,個々の事物がバラバラに存在する世界です。
しかし,この世の無常を痛感した人間は,真理を求めて彷徨し,絶対者に遭遇。己を絶対者に明け渡すようになります。この場合の絶対者を,仏教では空や無,儒教では太極,道教ではタオ,キリスト教やイスラム教では神と呼びます。また,絶対者に己を明け渡す行為を,キリスト教では回心と呼び,道元は身心脱落と称しました。この時,人間は全くの無になり,いわゆる自我の死を体験します。
脱落身心
一度死んだ人間は,絶対者によって復活します。そして,復活した人間は,全く違う世界観・人生観によって生きることになります。人間の身体は,もはや生理的器官ではありません。絶対者の御心を遂行する「歴史的身体」です。歴史的身体とは,己の使命を遂行する行動的器官であり,「全体と有機的に繋がった個」です。まるで雪舟の山水画のように,全体が一つに調和しながら,個々の事物が躍動する世界です。
生理的身体から歴史的身体へ。単なる肉体(σαρξ)からパウロの言う霊の身体(σωμα)へ。空間的に分節化された身体から,過去と未来の境界に生きる本来的人間へ。禅宗では,本物の悟りを「頭がとれる」とか「身体で悟る」と称します。また,生理的身体から歴史的身体に変容することを,キリスト教では召命と呼び,道元は脱落身心と称しました。この時,人間は己の使命を自覚し,無私となって大義のために身命を賭します。
日本文化の独自性
日本文化の特殊性は,徹底的に現実を重視し,ありのままの人間関係の中に真理を把捉する精神です。身体を重視した道元の悟りは,日本的独自性の代表例と言えるでしょう。この傾向は,仏教史を概観すれば一目瞭然です。
インドから発した仏教は,当初きわめて抽象的でした。インド人の特性は,その壮大な空想力にあったのです。空想的な仏教は中国に渡り,今度はきわめて論理的になりました。中国人の特性は,その学問的な緻密さにあったのです(天台智顗の著作を参照して下さい)。時を経て,論理的な仏教は日本に伝わり,再び大きく変容しました。仏教は,きわめて現実的・実践的に変貌したのです。その宗派や教えは違えども,空海・親鸞・道元・日蓮らに共通する傾向は,ありのままの現実の中に仏の心を観取する態度でした。仏は,空想的世界でも学問的世界でもなく,この汚れた現実世界の真っ只中に存在している。仏と人間と自然が調和した理想的世界は,目の前の現実世界で成就されねばならない。これが,日本文化の独自性です。
親鸞は晩年,自然法爾(じねんほうに)という言葉を愛しました。賢しらな自我を捨てて仏を求め,仏を求める自己も捨てて,仏そのものとなって生きる境地。神なき世界において神の御心を体現する生活。これこそ,日本仏教の精華であり,日本文化の独自性なのです。茶道・華道・柔道・剣道など「道」に込められた意味は,親鸞の言う自然法爾の境地であり,自己を忘れて自己を得る生き方と言えるでしょう。
「自分の命を求める者はそれを失い,わたしのために自分の命を捨てる者はそれを得ます」(マタイ伝10-39)
西洋の騎士道は,死を覚悟して戦場に臨みます。しかし,日本の武士道は,すでに死んで戦場に臨みます。「死を覚悟する私」さえも捨てて正義に没頭する境地こそ,武士道の本質なのです。
「この主従の契より外には,何もいらぬことなり。この事はまだなりとて,釈迦・孔子・天照大神の御出現にて御勧めにても,ぎすともすることにてなし。地獄にも落ちよ,神罰にもあたれ,この方は主人に志立つるより外はいらぬなり」(「葉隠聞書」)
以下は参考書籍です。