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日本人の宗教性


誤解された日本人


 かつてフランス人作家ポール・ボネは,「不思議の国ニッポン」の中でこういう逸話を語りました。ある日本人商社マンが海外赴任した際,欧米人にこう聞かれたそうです。「あなたは神を信じているか?」と。その日本人はこう答えました。「私は無神論者です」と。その後,日本人商社マンは仕事に支障をきたしたそうです。理由はこうです。当時の欧米人にとって,神を信じないことは,「神に見られているという意識」が欠けていることであり,それはすなわち倫理の欠如を意味しました。簡単に申し上げれば,倫理観が完全に欠如していますから,「私は人を殺しもすれば,女を犯します」と宣言しているようなものなのです。
 確かに日本人は,欧米人のような一神教の信者ではありません。が,日本人には日本人の宗教があります。正月には神社にお参りします(日本神道)。葬式は仏教の形式に沿って行われます。礼節の根底には儒教があります。教会で結婚式を挙げ,クリスマスを祝います(キリスト教)。こうした日本人の宗教的無節操さは,外国人からすれば信じ難いようです。確かに,日本人は無宗教の国民です。だからといって,精神性に欠けているのではない。むしろ,きわめて鋭敏な宗教的感覚を持っている。今回は,日本人の精神性を弁護したいと思います。

外国人の宗教観


 この世界には,たくさんの宗教があります。欧米人が信じるキリスト教,中東諸国や東南アジアに広がるイスラム教,アジア全域に浸透した仏教など。これらの宗教には共通点があります。これらの宗教の神(仏)は,「主語の世界」に生きているのです。
 キリスト教の神は「汝(you)」です。つまり,キリスト教徒は,神を人間の対話相手として考えます。よって,ベルナールや十字架のヨハネに代表されるように,キリスト教的信仰の最終形態は夫婦のような信頼関係です。
 イスラム教の神は「彼(he)」です。つまり,イスラム教徒は,神を人間から隔絶した存在として考えます。よって,イブン・スィーナーやイスラム神秘主義に代表されるように,イスラム教的神の最終形態は絶対他者です。
 仏教の神は「私(I)」です。つまり,仏教徒は,神を人間の内に観取します。梵我一如,神と我は深いところで一体であり,我の本質こそ神の本質です。よって,臨済などの禅宗に代表されるように,仏教的真理の最終形態は本来的自己です。
 このように,外国人の神観は,世界の中心に位置する主語として位置づけられています。

日本人の宗教観


 外国人の宗教観が「主語の世界」であるなら,日本人の宗教観は「述語の世界」です。日本人は外国人のように,一つの中心を求めません。違う言い方をすれば,神を存在として考えません。人と人の間にある場こそ,日本人にとっては神なのです。欧米人が自我を重視し,日本人が他者を重視する所以です。
 日本人と外国人の精神性の違いを,言語学的に考察してみましょう。英語における別れの挨拶は「Good-bye」です。これ,単なる解散の合図です。一方で,日本における別れの挨拶は「さようなら」です。「さようなら」の本来的意味をご存知でしょうか?

「私はあなたとお別れしたくありません。いつまでもご一緒したい。しかし,そういう訳にも参りません。もしご縁があれば,私たちはいつの日か,また出会うこともあるでしょう。そうであるならば(左様ならば),名残惜しいですが,一旦ここでお別れしましょう」(中村元「日本人の思惟方法」)

 長い時を経て,「左様ならば」が「さようなら」に変化し,長い感情表現を集約した別れの挨拶になりました。ですから,正確に言えば,「さようなら」の英訳は「if so」なのです。「自我が世界の中心に位置する欧米人」と「他者との関係を重んじる日本人」の違いがお分かりになられたと思います。
 日本人は欧米人と違います。と同時に,他のアジア人とも異なります。インドや中国における無我と日本の無私は,まったく異なった概念です。無我は,仏教的な悟りの境地です。しかし,無我の思想の中には,「無我を求める我」が残存しています。なぜなら,意識が自己に向かうことにより,最後の我が除去できないからです。しかし,日本人の無私は,無我という意識さえ捨て去った無です。国を救うため,他者を救うため,使命を果たすため,己を忘れて没頭する絶対無です。

日本人の精神性


 主語と述語の世界,この差は絶大です。外国人は言います,「私が愛する」と。日本人も言います,「私が愛する」と。同じ意味の言葉を吐いても,重点が違うのです。主語の世界に生きる外国人は,愛する主体である自我が中心です。一方で,述語の世界に生きる日本人は,愛する行為が中心です。
 キリスト教の神をyou,イスラム教の神をhe,仏教の神をIとすれば,日本人の神はbe動詞です。確かに,主語の世界に生きる外国人から観れば,日本人には(主語的)神が存在しません。しかし,日本文化には神が存在しないのではなく,彼らの目に見えないだけなのです。
 それだけではありません。論理学的に申し上げれば,述語は主語を包含します。すなわち,be動詞は,主語に応じて柔軟に適応することができる。youにはareで,heにはisで,Iにはamで,あらゆる宗教を包含することができる。
 これは歴史が証明しています。日本人はインドの仏教を学び,空海において仏教を究めました。日本人は中国の儒教を摂取し,佐藤一斎において儒教を究めました。日本人は欧米からキリスト教を取り入れ,内村鑑三において福音の精神を徹底させました。宗教だけではありません,哲学も同様です。西洋哲学の頂点とされるヘーゲル哲学には「自我の矛盾」がありました。ヘーゲル的観念論がマルクス的唯物論に堕した原因です。しかし,日本の西田幾多郎は,西洋的自我を克服し,ヘーゲル哲学を最終的結論に至るまで徹底させました。いわゆる「絶対無の哲学」です。このように日本人は,深い精神性を有するが故に,諸思想を徹底させる独創性を秘めているのです。

日本の勃興


 かつて司馬遼太郎は「この国のかたち」において,日本人の特徴をこう述べました。日本人は巨大な無(空洞)を好む。日本人が愛するリーダーは,項羽や織田信長のような切れ者ではなく,西郷隆盛や徳川家康のような大きな器を持つ人格者である。あたかも,全てを生かす天照大神のように,日本人は巨大な無を好む。日本特有の天皇制もまた,社会を安定させる巨大な無なのかもしれない,と。
 徐々に戦乱の世が近づきつつあります。徐々に旧文明が終焉しつつあります。古い文明は滅び,新しい文明が誕生しなければなりません。文明の土台は宗教的意識です。宗教こそ,アリストテレスのいう「文明の第一原因」です。今度の宗教は,すべての既存宗教を包含する思想でなければなりません。そうであるなら,我々日本民族が,新文明の土台を据える役目を負っているのではないでしょうか。日清・日露戦争当時の軍事大国・日本,高度経済成長当時の経済大国・日本。往時の日本は,これから始まる精神大国・日本の前哨戦に過ぎません。新文明の土台を据える歴史的民族としての日本人。これは,私の愛国的妄想でしょうか?
  
「恩恵の露,富士山頂に降り,滴りてその麓を潤し,溢れて東西の二流となり,その西なる者は海を渡り,長白山を洗い,崑崙山を浸し,天山,ヒマラヤの麓に灌漑ぎ,ユダの荒野に到りて尽きぬ,その東なる者は大洋を横断し,ロッキーの麓に金像崇拝の火を滅し,ミシシッピー,ハドソンの岸に神の聖殿を潔め,大西洋の水に合して消えぬ,アルプスの嶺はこれを見て曙の星と共に声を放ちて謡い、サハラの砂漠は喜びてサフランの花の如くに咲き,かくて水の大洋を覆うが如くエホバを知るの智識全地に充ち,この世の王国は化してキリストの王国となれり,我睡眠より覚め独り大声で呼わりて曰く,アーメン,然かあれ,聖旨の天に成る如く地にも成らせ給へと」(内村鑑三/1907年1月10日「初夢」)
 

以下は参考書籍です。

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