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宗教を超越した神


唯一神教の誕生


古代ギリシャの宗教改革


 現代の唯一神信仰は,ユダヤの宗教とギリシャの哲学によって形成されました。ユダヤ民族は信仰の方面から,ギリシャ民族は知識的方面から,唯一神教の誕生に貢献したのです。ここで皆さんは疑問に思われるはずです。「ギリシャ人は多神教の民であって,唯一神教に関係ないのではないか!?」と。いいえ,決してそうではありません。オリンポス十二神の多神教は,エレア学派の哲学者たちによって哲学的唯一神教に変貌したのです。
 まず先陣を切ったのは,エレア派の創始者クセノパネスでした。彼は,神話的世界観の矛盾を突き,神々の不道徳さをもってギリシャ宗教の欺瞞を暴きました。次に弟子のパルメニデスが,「一なるもの」としての真理を追究しました。このパルメニデスの一元論的思考が,弁証法を考案したゼノンやメリッソスにより深化・発展し,プラトンに至って「善のイデア」と呼ばれる唯一神的思想に結晶化したのです。そして,ユダヤで誕生したキリスト教とギリシャで誕生したプラトン哲学が融合し,いわゆる西洋的キリスト教が誕生したのです。

宗教の限界


 現代の唯一神教は不完全な代物です。なぜなら,唯一神信仰が戦争を誘発しているからです。もし神が唯一であるのなら,全人類の神であるはずです。全人類の神を信じる民が,戦争を起こすはずがありません。また、もし神が天地万物の創造主であるのなら,すべての宗教を包含できるはずです。しかし,キリスト教もイスラム教もユダヤ教も争い合っています。なぜでしょうか?なぜなら,これらの宗教はみな,排他的一神教だからです。
 本物の唯一神教は,すべての人間,すべての宗教を包括する統合的一神教でなければなりません。地球がいくつかの文明圏に分離している時代ならば,現存する世界宗教で充分でしょう。しかし今や,科学技術の発展によりグローバル化が進展し,地球全体が一つの文明になろうとしています。新しい時代には,新しい宗教が必要です。アリストテレスが喝破したように,宗教こそ文明の第一原因です。経済の土台は政治であり,政治の土台は社会であり,社会の土台は教育であり,教育の土台は倫理であり,倫理の土台は宗教です。すなわち,神の観念がすべての源であって,政治・経済の発展はその結果に過ぎないのです。
 新しい時代の宗教を作るため,再び彼らがやって来ます。唯一神教の形成に貢献したエレア学派の哲人たち。彼らは再び,統合的一神教を誕生させるためこの世にやって来たのです。

新しい神の誕生


①  ヤコブ・ベーメ

ヤコブ・ベーメ

 ゼノンとして活躍した魂は,今度は近代ドイツに転生しました。ドイツ神秘主義の祖ヤコブ・ベーメです。彼の使命は他でもありません。キリスト教的な神の観念を突破し,新しい神の観念を鼓吹することでした。キリスト教の神は善なる神ですが,ベーメのいう神は善悪を超越する神です。神は,善でも悪でもなく,何らかの実体や対象でもありません。もし概念として表現できる神ならば,それはもはや神と言えません。
 本物の神は,神という概念が生まれる前の神であり,無そのものです。あらゆる存在は互いに依存し合いますが,神は何ものにも依りかかりません。神には,神を支える根拠がないのです。すなわち,ベーメが体験した神とは,根拠を探しに神の底をどこまで降りていっても,突き当たる底がない「無底」なのです。

②  フィヒテ

フィヒテ

 ベーメは神の観念に革命を起こしました。一方でフィヒテは,キリスト教が陥った罠を鋭く分析しました。なぜイエスやパウロの至純なる信仰が,排他的一神教という似て非なるものに堕してしまったのか?それは,キリスト教徒が神を客体化したからです。神を客体化することにより,イエスの主体的な犠牲的精神やパウロの能動的な愛の活動が失われ,人々は地球の乗組員から乗客となり,傍観者的な態度を醸成してしまったのです。
 フィヒテは,知識学という方法を考案しました。私たちが何かを知る際,私たちの意識は二つに分裂します。主観と客観です。主観は「知るもの(ノエシス)」であり,客観は「知られるもの(ノエマ)」です。鏡の前に立った人間が動くと,映し出される自分の姿も動きます。それと同じように,主観と客観は鏡像関係にあり,客観は主観の態度に左右されます。簡単に申し上げれば,私たちが見る世界は,私たちの心の状態に応じて変化するのです。
 意識による主客の分離が,客体化の原因です。ならば,客体化を防止するため,徹底的に客体化された事物を破砕せねばなりません。私が見ている世界を否定し,世界を見ている自我(エゴ)を否定し,否定する自我も否定し,否定することさえも否定して,客体化されたすべての実体を捨て去る時,心の内から真実の自己(セルフ)が覚醒するのです。この自己こそ,新しい神に他なりません。
 フィヒテが達した境地は,いわば東洋的悟りの心境であり,道元のいう「父母未生以前本来の面目(両親さえ生まれる以前の自分の本来の顔)」,臨済のいう「無位の真人(宇宙的エネルギーと一つになった私)」と同じ意味といえるでしょう。フィヒテは言います。神を信じて生きるとは,神を忘れ,神を信じる自己も忘れ,忘れることさえ忘れて,神と共に歩むことでなければならない,と。この態度こそ,イエス・キリストの信仰だったのかもしれません。ちなみに,フィヒテの前世はエレア派のメリッソスです。

③  シェリング

シェリング

 ベーメとフィヒテの活躍により,統合的一神教の基礎が固められました。いよいよ,新しい宗教的基礎に向けて,哲学的思考は加速せねばなりません。そこで登場したのが,エレア学派の創始者であるクセノパネスです。クセノパネスは,今度はシェリングとして近代ドイツに生まれ,大哲学者ヘーゲルを超えて前人未到の道を切り拓きました。
 シェリング哲学の本質は,伝統的宗教の神を突破して,生ける真の神を求めたことです(後期シェリング哲学)。特定の名前で呼ぶことができる神は,本当の神ではありません。なぜなら,名前をつけることにより,神を限定してしまうからです。真の神は,名もなき神,一種の深淵でなければなりません。シェリングは真の神を「das Unvordenkliche(神に先立つ超神的な存在)」,あるいは「絶対的プリウス(原初)」,もしくはベーメにならって「無底」と呼びました。東洋的な言い方をすれば,絶対無です。
 しかし,もし神が完全な無ならば,創造が行われないことになります。神が何かを創造するためには,被造物に向いた有の側面がなければなりません。すなわち,真の神には,絶対無と絶対有が共存しているのです。この絶対有のことを,シェリングは「永遠の意志」と呼びました。聖書において,父なる神と子なる神が一体であるように,「純粋な根源存在である絶対無」と「永遠の意志である絶対有」は一体です。聖書において,父は子を通して万物を創造したように,無底は「無底の底」を足場に万物を創造しました。そして,シェリングにとって,キリストこそ無底の底であり,永遠の原像だったのです。
 シェリングは晩年,哲学的宗教を提唱しました。哲学的宗教とは,全人類が崇拝すべき宗教であり,すべての時間を通して存在する宗教です。キーポイントは「キリストの精神」です。キリストの精神(聖霊)こそ,すべての宗教を統合する原理なのです。
 哲学的宗教とは,バラバラな人類を一つにする普遍的宗教です。世界史は,三つの時代に区分されます。第一に,神話的宗教の時代です。神話(ギリシャ神話・エジプト神話・インド神話など)が人間の心を支配し,人類が各民族に分裂した時代です。第二に,準精神的宗教の時代です。高度な教え(仏教・キリスト教・イスラム教など)が人間の心を支配し,人類が各文化圏に分裂した時代です。最後に,精神的宗教の時代です。キリストの精神が人間の心を支配し,全人類が一つになる時代です。私たちは今,精神的宗教へ向かう途上にいるのです。

④  ハイデガー

ハイデガー

 ヤコブ・ベーメは,キリスト教的な神を破砕し,内なる神を唱道しました(内面的神秘主義)。フィヒテは,分裂した主観と客観を合一する方法を説き,内なる神が顕現する道を示唆しました。シェリングは,その類まれな神秘的直感能力により,新しい神の顕現を詳細に論述しました。ベーメ→フィヒテ→シェリングと受け継がれた「宗教を超越した神」,その神を信じる時,人間には一体何が起こるのでしょうか?新しい神への信仰とは,何を意味するのでしょうか?この問題を解決した者こそ,エレア学派最大の哲学者パルメニデスの生まれ変わりです。彼の名をマルティン・ハイデガーと呼びます。
 多くの人間は,ハイデガーを無神論者と呼びます。しかし,それは大きな間違いです。確かに,ハイデガーの著作には,神やキリストという言葉は登場しません。が,これはハイデガーの哲学的戦略でした。なぜなら,神を論じれば論じるほど,人間は神から遠ざかるからです。「神」という一定の概念を前提とすることにより,真の神を取り逃がすからです。

「哲学の神,第一原因としての神を棄却しなければならない。神なき思索こそが,神に相応しい,ひょっとしたらより近いかもしれない」

 つまり,ハイデガー哲学は無神論なのではなく,いわば方法的無神論なのです。単なる無神論ではなく,「神を信じるからこそ神を論じない」という立場なのです。神を人間的思索の玩具(おもちゃ)にするのではなく,己の根本的な超越的体験を通じてのみ,神との関わりを思索する立場です。
 一般的に,ハイデガーの主著は「存在と時間」とみなされています。しかし,ハイデガーの本当の主著は,死後出版された「哲学への寄与」です。「存在と時間」は,人間存在を徹底的に分析しました。一方で,最晩年の著作「哲学への寄与」では,神との遭遇体験を論述しています。
 ハイデガーは,諸宗教を超越した生ける神を「最後の神」と呼びました。ちなみに,この最後の神は,単数でも複数でもありません。なぜなら,神の数を問題にすることは,神を事物存在者として対象化してしまうからです。真の神は,人間の根拠づけや証明を拒否する神であり,形而上学的解体によって顕われる「隠れたる神(ルター)」です。
 最後の神に接する時,人間は三つの特徴を帯びます。第一に,「神の探究者」になります。神を探究すること自体が唯一最大の目標となるのです。第二に,「真理の保護者」になります。この神なき世界において,神の弁護人となるのです。旧約の預言者や新約の使徒がそうであったように,彼は神の正義の代弁者となるのです。第三に,「最後の神の立ち寄りの静けさの番人」になります。おしゃべりと好奇心が支配する騒々しい世の中において,沈黙という根源的次元において神との邂逅を実現します。
 これら三つの特徴を帯びた信仰者の生き方は,イエス・キリストへの服従です。イエス・キリストが神の苦悩を引き受けたように,信仰者もまた,己自身の十字架を負い,神なき世界で神と共に苦悩します。

来たるべき人々


 新しい時代が到来するためには,少数者が先駆けねばなりません。誰かが道なき道を切り拓き,大勢の民衆が通れる大道を舗装せねばなりません。ハイデガーは,こうした少数者のことを「来たるべき人々」と呼びました。
 来たるべき人々は,三つの特徴を有しています。彼らは第一に「夜の人」です。「旧文明はもう無い」と「新文明はまだ無い」という二つの無の間で耐える人です。彼らは第二に,「見張人」です。神の口として到来する神を告げ知らせ,最後の神の道備えをする人々です。彼らは第三に,「神の証人」です。彼自身が神の徴(しるし)となって,彼に出会う人々を目覚めさせます。最後の神の啓示を言語化し,多くの人々が理解できる一つの作品として形作り,作品の衝撃によって頽廃した人々を覚醒させ,神の国へと結集させる人々。将来の秘かな準備のために,敢えて犠牲(没落)を選ぶ人々。これが,新しい時代を招来するよう神に委託された少数者の任務なのです。

「自己を真に自由な哲学の出発点に置かんとする者は,神をすら放棄せねばならない。・・・まず一切を捨て去ったもの,この者のみが彼自身の根拠に達し,生の全き深淵を認識する。ダンテが地獄の門に記されているとしたものは,異なる意味において,哲学に入る門の前にも記されねばならない。<汝らここに入る者は一切の望みを捨てよ>」(シェリング「諸世界時代」)
 

以下は参考書籍です。

① ヤコブ・ベーメとフィヒテについて

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② ハイデガーについて

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③ 新しい宗教的意識

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