現代人の病「世界の喪失」
現代文明の特徴
19世紀後半からヒステリー患者が増え,フロイトはヒステリーを研究した結果として精神分析学を創始しました。ヒステリー患者の次に蔓延したのは神経症患者です。この神経症を癒すために,フランクルは実存的精神分析を創始しました。さらに,現代では統合失調症(旧・精神分裂病)が増え始め,この不治の病を解明すべくユングは深層心理学を創始しました。
精神病の帰結としての統合失調症,この病こそ,現代人の心的傾向を表しています。統合失調症の本質とは,統一された自己(人格)を見失うことです。違う言い方をすれば,現実感覚が麻痺し,世界から遊離することです。世界の喪失,これが現代文明の闇と言えるでしょう。
世界疎外
なぜ,統合失調症が流行しているのでしょうか?なぜ,現代人は現実世界から遊離し易いのでしょうか?原因は,20世紀の2つの事件に由来しています。一つ目は,フョードロフの宇宙主義です。彼の構想したロケットにより,人類は宇宙に飛び立ちました。果てしなき宇宙へ。二つ目は,フロイトによる無意識の発見です。彼の開拓した心理学により,人類は心の深淵を覗きました。果てしなき心の中へ。
数千年間,私たちが安心して暮らしてきたこの地球,安定した地面。この地面が,果てしなき上方と果てしなき下方の発見により,一気に揺らいでしまったのです。そして生じた現象が,全人類的な世界疎外でした。カール・マルクスの指摘した自己疎外とは,世界疎外の一部として解釈すべきでしょう。
世界不信
どうすれば,私たちの世界疎外は癒されるのでしょうか?ちなみに,世界を取り戻すために必要なのは,古代ギリシャ人やイエス・キリストが重んじた「複数性の尊重」です。異質な人々が共生する空間の創出,対話と説得に基づいた共同体の設立。いずれにせよ,同質性ではなく複数性(多様性ではない!)が重んじられなければなりません。では,どんな思想が複数性(世界)を復権できるのでしょうか?
近代科学でしょうか?いいえ,代数方程式によって全てを導き出そうとする近代科学は,反世界的です。キリスト教でしょうか?いいえ,キリスト教は不滅の命を重んじて世界の破壊的終末(カタストロフィー)を信じています。「ローマ帝国衰亡史」の著者エドワード・ギボンが喝破したように,共同体への愛を軽んじるキリスト教は非世界的です。ならば仏教でしょうか?仏教は世界を幻(マーヤー)と考えます。故に,仏教は無世界的です。
すなわち,近代科学の合理性もキリスト教の隣人愛も仏教の寛容も,人間をして世界に関心を向けさせることができないのです。
世界を取り戻すために
私たちは,どうすれば世界を取り戻せるのでしょうか?同質性に基づいた集団でも国家でもない,異質な人間が共生する複数性の復権。すなわち,真の共同体の確立。政治学者ハンナ・アーレントによれば,複数性を取り戻す条件には2つあります(「人間の条件」)。
第一に,赦し合う能力です。イエスのように「7度を70倍するまで赦す」ことです。もし赦しがなければ,失敗した者は永遠に過去の過失から抜け出せなくなります。赦しがあるからこそ,人間社会は失敗を乗り越え,前に進むことができるのです。
第二に,約束しそれを守る能力です。ローマ法の精神(lex)にあるように,約束することにより,人々は不確かな未来に向かって共に歩むことができます。約束を守ることの重要さを認識すること。これが,健全な共同体の前提です。
赦しにより「過去の取り返しのつかなさ」を克服し,約束により「未来の予測のつかなさ」を克服する。こうすることにより,異質な人間同士は個として有機的につながり,生き生きとした世界を確立できるのです。イエスの教えとソクラテスの精神こそ,現代人の病を克服する鍵になります。
以下は参考書籍です。