魔女のエネルギー療法講座の後半「魂編」の中で、日本人の信仰についてお話しする回があります。以下はその講座の一部を文章化したものです。
「神道とは何か?」について、これまで様々な文献をあたってきましたが、言語化するのが難しいため、代わりに図象で可視化しながら説明したいと思います。
その一つが下記の<たての“わ”とよこの“わ”>の図です。
我が国は欧米のような「階級社会」ではなく、基本的に「分掌分業社会」であり、そこには非常に水平感があります。いわゆる「マルチョン」の世界観です。
江戸時代の「士農工商」ですら「役割分担」のニュアンスが強かったようですから、学校でこれを「階級」として教えられたのは、戦後の左翼的(マルクス主義的)価値観から来る偏見だったわけです。
この水平な「よこの“わ”」は、実社会を形成する横の繋がりを表します。
それは互いを思いやる心であり、他者への気遣いや利他心、共同体意識等と言い換えられます。
日本は「和の国」とよく言われますが、これは自他ともに認めるところではないでしょうか。そして日本人の中にこの「よこの“わ”」が失われていなかったことを、3.11の震災のときに世界に示しました。
私たち自身もまた日本人であることを自覚した…つまり「日本人として目覚めた」のも、このときだったのではないかと思うのです。
我が国は縄文時代以来、上下感のほとんどない共同体社会を築いてきました。
縄文時代の竪穴式住居は円形ですが、集落も円形に広がっており、多少の違いはあっても、どれが地位の高い人物の住居か分からないといいます。そして中央広場には先祖の墓がありました。縄文人は先祖の霊と共に生活していたのです。
「マルチョン」のチョンにあたるのは「まとめ役」の存在です。真ん中にいるのはまとめ役としての「神(ご先祖様の霊)」であり、「長老」の存在でした。おそらく「長老」は、その村で最も古い血筋を持ち、先祖の霊を降ろす語り部であり、墓守であったと考えられます。これが後に祭祀王としての「天皇」になるわけです。
英語圏では自分の先祖を「ルーツ」と呼び、根っこに例えて「下」に見ますが、日本人は「先祖代々遡る(さかのぼる)」と言うように「上」に見ます。
「上」は「かみしも」の「かみ」であり、ご先祖様は「かみ」様です。
これは頭髪を「髪(かみ)の毛」と言ったり、役人を「お上(おかみ)」と言ったり、宿や料亭の仕切り役を「女将(おかみ)」と呼ぶのと大差ありません。最近ではほとんど使われませんが、自分の奥さんのことを「うちのカミさん」と呼ぶのも同じことです。そういう意味で「天皇は神である」という言い方は、当時も今も何も間違っていません。戦後に昭和天皇が「人間宣言」をしたとされますが、天皇が人であることくらい、当時から誰もが知っていました。
そして日本人のご先祖様を遡っていくと「高天原の神々」に行き着きます。高天原の神々は日本人の「先祖の霊」であり、古事記や日本書紀に描かれた天孫降臨の神話と、現在の日本人は直結しているわけです。
このことを戦前のフランスの文化人類学者レヴィ・ストロースは、羨望の眼差しを込めて「神話と歴史が連続している稀有な民族」と日本人を評しました。
日本人の「神」に対する概念はこうしたものであり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に見られる唯一絶体の「全能の神」とは全く異なります。
芥川龍之介の小説「捧教人の死」には、バテレンの神を「デウス様」と呼び、日本の神々とは明確に区別されている様子が描かれています。戦後になって、日本の神も外国の神も一緒くたにしたことから様々な誤解が生じたと言えるでしょう。
戦後GHQは、本気で日本人をキリスト教化するつもりでした。皇族の子息にクリスチャンの家庭教師をつけ、聖書を3500万部も無償で配ったことからもその本気度が伺われます。実際に1980年代まで日本はバチカンの重点布教区でした。
こうして日本の「神」をキリスト教の「神」に置き換えたかったのかもしれませんが、現在もキリスト教の信者は人口の1%程度に過ぎません。半世紀かけても日本人はキリスト教化されなかったのです。
しかし一方で、GHQの最重要課題だった「民衆と皇室の紐帯を断ち切る」という政策はある程度成功したかに見えます。
学校教育で神話を教えるのをやめさせた上に、歴史教育も封殺しましたし、皇室祭祀と国民の祭日・祝日が一致しているのが気に入らなかったのか、ご丁寧に「明治節」を「文化の日」に、「新嘗祭」を「勤労感謝の日」に名称を変えてきました。
国際法を破って新憲法を導入したのも、日本に共産革命を起こさせ、日本人自身にに天皇を倒させる目的があったといいます。これは田中英道先生の学説ですが、共産党を政党として公認したことから始まり、暴力革命を鎮圧されては困るので国軍を廃止し、国家権力に対する国民の権利を執拗に記述しているのはそのためだというのも納得できます。当時のGHQには共産主義者が多く入り込んでいたことも分かっています。
そんな共産主義革命のためのいびつな憲法が、戦後自衛隊がアメリカが起こした地域紛争のコマとして使われるのを防ぎ、今や闇堕ちした政権に、ワクチンの強制接種等の“国民を拘束する権限”を阻んでいるのだから、巡り合わせとは不思議なものです。やはり日本と日本人は守られているのかもしれません。
いずれはこのいびつな「日本国憲法」を廃止し、日本人の手で造り変える必要がありますが、今の政権にそれをさせるわけにはいきません。ワクチンによる国民の殺戮に手を染めた犯罪政権ですから、その前に彼らにはブタ箱に入ってもらう必要があります。
残念なのは「たての“わ”」が弱くなっていることです。
ご先祖様との霊的な繋がりは「家」の破壊によって随分進みましたし、「核家族」化で祖父母への敬意を子供たちに示す機会も減りました。そして神話を学ばなければ、皇室と国民の関係も理解できません。
かつてイギリスの歴史学者アーノルド・トインビーは「12歳までに神話を学ばなかった民族は必ず滅びる」と断言しています。数百年に及ぶ植民地政策によって数多の民族を滅ぼしてきた大英帝国の学者だけに、その言葉には説得力があります。
歴史と伝統の蓄積ゆえにまだ滅んではいませんが、今や我が国もその轍を踏んでいるのです。
そしてもう一つ、我が国にはかつて理想的な民主主義のシステムが存在したことを思い出す必要があります。
古事記と日本書紀が編纂された前後の200年間は、価値観が大変動した「国難の時代」でした。ちょうど聖徳太子の一七条の憲法制定からはじまって、平安京に遷都するまでの期間です。このときに確立した「公地公民」制と「律令」制は、名称こそ唐に倣ったとは言え、中身は縄文時代以来の“水平感”のある、実に日本的な政治のあり方でした。
それは一言で「権威と権力の二権分立」と表現できます。政治権力者は貴族であれ、幕府であれ、天皇という「権威」から任命されることでその「権力」を得るという形です。
人間社会ではこちらを立てればあちらが立たずという問題が必ず生じます。しかしどちらかを選択しなければいけない。そこで「権力」を振るえば、必ず誰かが泣きを見ます。誰かから恨まれることになります。未来がわからない以上、決めたことが裏目に出ることもあります。権力と権威が一致していると、失政によって権力者の権威にも傷がつきます。こうして歴史上の多くの王朝が権威を失墜し、台頭してきた勢力に倒されました。そしてその失政の責任は誰が取るのか…? 権力者に対して責任を追求する存在がいないのです。
この問題を解決する方法が、権力を持たない「独立した権威」を立てることでした。これが以下の
「皇(こう)」
↓
「臣(しん)」
↓
「民(みん)」
という関係です。「臣(しん)」というのは律令制の役人のことですが、この表現は今でも「大臣」という言葉で残っています。この「臣」が平安貴族であっても「征夷大将軍」を拝命した武家幕府であってもいいわけです。
しかしこの序列のままだと、「民衆」という水平の“わ”の上に垂直方向の力が立ち上がってしまい、円錐形のいびつな形になってしまいます。これではピラミッド型の階級社会と変わり映えしません。では水平感を損なわないためにどうするか…?
最高権威である「天皇」が「民」を「おほみたから」と呼び、権力者である為政者がその「おほみたから」を預かる形にすれば、権力者は「民」を私物化できず、「民」の幸せと「社会」の安寧のために奉仕する「責任」が生じます。つまり
「皇(こう)」
↓
「民(みん)」
↑
「臣(しん)」
という、「民衆」を中心に考える政治体制がここに出来上がります。
これが第16代仁徳天皇のお言にある「君は民(たみ)を本(もと)とす」に象徴される「民本主義」と呼ぶべき政治思想です。
権力者は民衆のために奉仕する存在になり、権力者によって私物化(奴隷化)されることがないという開放感。この“自由さ”が民衆の創造力の土台になっていると言ってもいいでしょう。これが日本人の「結び」の力です。世界中から良いものを取り入れ、洗練させる「日本化する力」と言ってもいいかもしれません。
この「たての“わ”」が「よこの“わ”」の中央にあるからこそ、二つの輪が球体を成して確固としたものとなっています。そう言えるのは、このたての“わ”がひっくり返って「皇」が一番下に来ても同じだからです。「天皇」が民のためを思って祈り、高天原と繋がってくれているからこそ、民の安寧が約束されている。「天皇」はある意味で最も自由がない存在であり、「天皇」こそ民衆に奉仕しているとも取れるのです。
そんな「天皇」の民の幸せを願う「大御心」と、皇室が存在していることで、自分の出自が高天原の神々であることを担保していることに「民」は心から「感謝」し、「報恩」の気持ちを忘れない。もっと言えば「民」の方から「お願い」して「皇室」をやっていただいているという関係です。
国民と皇室は「相思相愛」なのです。これが「君民共治」のあり様です。
日本は「和」の国といいますが、「和」とは何か?を紐解けば、「仲睦まじく」という意味の他に「利他心に基づき、お互いに全体善を慮って行動すること」と定義できます。
この定義にたどり着くまでに結構時間がかかりましたが、この「全体善」という言葉は船井幸雄先生の言説からいただいたものです。かつて船井先生は「全体善を慮ることができるのがエリートというものだ」と言っていました。でも日本人は一介のバイトであっても、企業の看板を背負っているという自覚ができる。だから「日本人はみんなエリートだ」というのです。
そしてこの「利他心」や「全体善を慮る心」は「愛」の表れひとつと言えるでしょう。しかもとても大きな「愛」です。そして「天皇」ご自身がそれを体現されている。そういう意味で、少々口はばったいですが、日本は「愛」の国です。
キリストの教えは「愛の教え」ですが、日本人はわざわざキリスト教から「愛を学ぶ」必要なんてないのです。
私たちはこのことをもっと自覚すべきでしょう。
以下にいくつか資料を転載します。
民主主義とは何か?と問うた場合、ほとんどの人が国民が平等に為政者を選ぶ「総選挙」の仕組みを挙げるでしょう。しかし民主主義の理想である「自由と平等」を理論化できる人はいないと思われます。完全な「自由」と完全な「平等」は相矛盾する概念だからです。
共産主義も社会主義も民主主義も、ユダヤ人が作った人工的な思想です。
「自由と平等」は民主主義を喧伝するためのお題目に過ぎず、20世紀以降「民主化」の名の下に、耳触りがいいだけの、虚しい「自由と平等」が、何度も何度も政治家や革命家の口から唱えられてきたわけです。
そして民主主義という政治思想は、既存の世俗的な王政を倒すために作られたものと言えます。「それは共産主義の間違いだろう」という人がいますが、共産主義も当時は民主的な思想と評価されていました。実のところ根は一緒なのです。
共産主義は暴力革命によって持てる者を殺してでも富を奪い、国家が一括して吸い上げた上で、全ての国民に平等に配分しようというものです。しかし蓋を開けてみれば共産党の独裁政権に過ぎず、共産党の一部のエリートが富も情報も軍部も掌握する「寡頭政治」体制でした。一党独裁とは「ファシズム」のことです。
民衆は生産のための道具にされ、自由を奪われました。この体制に「資本家」の姿は見えませんが、エリート支配の裏には巨大な資本が隠れています。「資本論」や「共産党宣言」を書き上げたカール・マルクスにはユダヤ系の資本家がスポンサーについていました。「暴力革命」も資金や武器を提供する者がいてはじめて起こせることを知る必要があります。
民主主義はもう少し複雑ですが、金と情報の力でその国を外部からコントロールしようという仕組みです。資本家の姿は見えていますが、通貨発行権を掌握していることはひた隠しにしています。そして金(マネー)の力を行使して情報(メディア)と知識層(大学・教授陣)をコントロールし、選挙民にはそれと分からないように裏から操作(洗脳)しています。教育と情報を統制することで間接的に民衆を支配する構造は、すでに100年前に、アメリカの国家情報局にいたエドワード・バーネイズが「プロパガンダ」という著作で種明かししています。
政府を動かしているのは政治家ではなく、メディアと官僚です。メディアは選挙で選ばれた政治家を批判しますが、官僚を批判することはまずありません。巨大なインセンティブを背景にした利権構造が何重にも張り巡らされていますが、これを“メディアと官僚が結託したエリート支配”と見立てると、共産主義と同じ「寡頭政治」体制であることがわかります。
「自由」を強調すれば民主主義的になり、「平等」を強く主張すれば共産主義的になるだけのことで、「自由と平等」は“実態のない言葉遊び”に過ぎません。
暴力革命ではなく、既存の文化を破壊することで共産革命を達成しようとする「文化マルクス主義」運動でも「自由と平等」を謳い文句にします。現代ではこれを「ポリコレ」や「LGBTQ」という看板に付け替えているだけのことです。
そして「グローバリゼーション」は、名前を変えた「共産主義化」であり、「文化マルクス主義」運動であると理解する必要があります。このカラクリに気がつかないと、今アメリカやG7諸国で起こっていることが分からなくります。
そして要は全てが「金(マネー)の力」というわけです。
結局のところ民主主義も共産主義も社会主義も目眩しのお題目に過ぎず、お金(マネー)を持つ者が最高権力者となる「資本主義」という唯一の体制が、この200年間地球上を席巻していたと見ていいでしょう。
次の時代にはこの体制を変えなくてはいけません。
お金こそが最高の価値であり、お金を持つ者が権力を握る時代から、民衆の幸せと自己実現の自由が最高の価値となる時代への転換です。それは「資本主義」から「民本主義」への転換しかないのではないかと、日本人として思うのです。