#週一文庫「賃労働と資本/賃金・価格・利潤 」マルクス(光文社古典新訳文庫)
一番面白かったのは、P200~204 賃金・価格・利潤 7.労働力
諸君はみな、自分たちが日々売っているものは自分の労働であると革新している。それゆえ、労働には価格があって、また商品の価格はその価値の貨幣表現にすぎないのだから、きっと労働力の価値なるものも存在するに違いないとおもっている。(中略)しかしながら、その言葉の通常受け入れられている意味では、労働の価値というものは存在しないのである。(中略)
どうして市場において、土地、機械、原材料、生活手段--これらはみな、自然のままの土地を除けば、労働生産物である--を所有している一群の買い手がいて、他方では、自分の労働力、すなわち作業をする腕と頭脳以外には何も売るもののない一群の売り手がいるのかを問うべきだろう。
労働力の価値とは何か?
他のすべての商品の場合と同じく、その価値はそれを生産するのに必要な労働量によって規定される。(中略)労働力の価値は、この労働力を生産し、発達させ、維持し、永続させるのに必要な必需品の価値によって規定される。
資本家にとって、賃金とは労働力という商品を購入するための原価でしかない。
感じたままに図で示すと、次のようになると思う。
資本家と労働者とでは、利潤のルールが異なる。そんなことは誰もが当然だと感じていると思う。
だからといって、「自分の賃金は、資本家にとっての原価である。原価であるということは、賃金=材料費である」といった理解の仕方ができている気もしない。
どうしても自分の賃金は、自分が働いて稼いだ金額に比例して変動する気がするけれど、実際はじぶんたちは「"労働力"という商品/原価として組み込まれているだけ」であって、労働によって出来上がった綿糸がいくらで売れようと、その利潤が賃金として返ってくることは無い。綿糸が高く売れたからといって、原材料として買った綿花に対して、後から「いやあ、あのとき儲かったから追加でお金払ってあげるよ」なんてことが起きないのと同じである。追加料金を払ってあげるわけではないのと同じことだから。
例外は、ボーナスや成果報酬といったものでしょうか。
でも基本、賃金とは、労働力の買い上げに払うお金。売上/利益が、高かろうと安かろうと、すでに買い上げられてしまった以上、労働者に対する追加報酬は存在しない。ただただ、その原価以上の売上/利益をつくりだすよう、我々は仕向けられている。
生産した商品がいくらで売れたのかは、労働者が得ている賃金に影響を与えるものではない。
もう一箇所書き抜いておこう。
P16, 18 賃労働と資本
それゆえ賃金は労働の価格につけられた、すなわち、他ならぬ人間の肉と血を容器とするこの独特の商品の価格につけられた、特殊な名前にすぎないのである。
それゆえ賃金は、労働者によって生産される諸商品に対する労働者の分前ではない。賃金は、資本家が一定量の生産的労働を買うのに用いる既存の諸商品の一部なのである。
となると、じぶんらが賃金に対して文句を言うのであるならば、生産した商品が売れてからではなく、そもそも雇われるときの雇用契約に対して文句を言うべきなんじゃないかと思う。いくらでその労働力を売るのかは、綿花がいくらで買われるのかと同じように、売買が取り交わされる瞬間にあるのだから。
「生産性」という言葉に最近良く出会うけれども、それはあくまで資本家にとってよき労働力であるためのものであって、労働者(我々)自身にとっての「生産性」であるかどうかは怪しいものと思う。なぜならば、その生産性が発揮されている段階では、労働力にはすでに値段がついて、買い上げられてしまった後であるのだから。
自らの労働力を、いくらで売るのか。それは、自分が次の日もその仕事をするにあたって、生き続けるのに必要十分な経費に準じて値がつくことになる。決して贅沢を前提とするものではない。だから、あと自分にできることは、その値をできるだけ高くなるよう十分な経費のかかる価値を示すこと。そしてその後その経費をうまく抑え、差益をつくり出すこと。なのではないかと思う。
久しぶりに毎日の家計簿つけていたら、思っていたよりも出費の多いことを反省しながら。