見出し画像

超写実絵画を見て気づいた映画(芸術)におけるエンコードとデコード作業について

はじめに

本日、インサイド リアリズム-超写実絵画と超絶技巧-という展覧会を観に行った。最寄駅にポスターが貼ってあって、それに目を奪われて行ってみたいと思ったのだ。

写真があるのになぜリアルな絵画?

今日の今日まで本当にそう思っていた。もちろん、決して馬鹿にしたり、ネガティブな想いということではない。間違えて伝わってほしくないので二度言うが本当にない。
それはもっと、子供のような単純な疑問である。
写真が発達し、私たちはありのままを、限りなくありのままに、時には記憶よりも遥かに鮮明に記録できるようになった。その中で、絵画によってリアルを作りだすという行為は、どのようなモチベーションから生まれるのだろうか、と。

ここに至る疑問は、絵画がそもそも肖像画など、記録のために生まれた、と言う私の認識から始まる。(専門ではないので、完全に間違っている可能性もある)

写真が登場してから、絵画はその「記録」という役目を終えたのではないかと。そこからは写真で表せない、つまり「写真には映らない」ものを描くことが絵を描く、ということなのではないかと、勝手に思い込んでいた。

だから、その中で、まるで写真のような絵を描くという行為は、どちらかというと、「描くという技術をどこまで高められるか」ということの技術の研鑽なのだと捉えていた。

だが、今日、主に大きな2つの出来事がそれを変えた。

衝撃1:小尾修さんのコメント

絵の一部には、作者のコメントや情報がQRコードで読み取れるようになっているのだが、出展者のひとり、小尾修(Osamu Obi)さんという方のコメントを読んで、崩れ落ちそうになった。

私にとって描くということは、特定の何かを表現することというよりも対象を理解したことの確認作業、また記録行為に近いかもしれない。
3次元の空間を2次元の絵画空間に置き換える作業は、単に表面の現象を精密に写しとる機械的な行為とは異なる。明暗、色彩、更に言えば温度や音、時間の幅を含む、対象が持つ膨大な情報の中から、何を見いだし、何を選び取り、絵具という制限のある物質に置き換えていくか。そこにはより感覚的な思考と解釈、判断が伴うはずだ。それはこの豊かな空間を平面という全く異質なものの中に翻訳、凝縮する行為に他ならない。そのモチベーションはこの世界自体の中にある豊かさから与えられるものであり、そこに私自身が圧倒されているかぎり描こうとする気持ちに終わりはない。

小尾修さんの自己紹介文より

3次元空間を認識し、理解し、その膨大な情報の中から選び抜いたものを2次元空間に変換する。写真はあくまで客観的に、そして小尾さんはそれを主観的、主体的にやっているということなのかと。

※ここで断っておかなければならないのは、ここで私が言っているのはあくまで写真という構造が持つ、記録としての役割である。
カメラマンが主体的に被写体を切り取ることとはまた大きく異なるが、記録、という意味においてのみ使用している。
(なので全世界のカメラマンの方、怒らないでください。。)

衝撃2:ある白黒の絵画

そんなことを考えながら作品を見て回っていると、1枚の白黒の絵画が目に入った。超絶技巧と名打った、写真さながらのリアリティのある作品に比べれば、それは「リアル」からは少し離れている。
でもそれをしばらく見ているうちに、「あ、昔の写真ってまさにこんな感じだ」と思った。
その瞬間、「リアルってなんだっけ?」という疑問が沸々と湧いてきた。カラー写真ができて、現在のような技術が発達するまで、写真が写し得るリアルはこの絵とおんなじではないか。とすると、そこから私たちが感じていたリアル、もまた、一つの間違いない「リアル」なんだと。

エンコード(圧縮)とデコード(復元)

ここで話が一旦飛ぶので脱落しないで欲しいのだが、今私たちが使っているデジタル写真や動画は容量を節約するために(厳密には他の意味合いもあるが)エンコード(圧縮)とデコード(復元)という処理をしている。

具体例でいうと、撮影した写真自体のデータは膨大なのだが、それをjpgという形に「エンコード」してファイルにしている。それをパソコンで開くと、実は裏で「デコード」という処理がおき、圧縮されたデータを元に戻して表示している。
ちなみに新しいiPhoneでは更に圧縮率の高いHEICという形式を使っているが、これを昔のパソコンで開こうと思っても開けない。なぜなら、昔のパソコンにはHEICを復元するための知識(コーデックというがそろそろ脱落者出るので割愛)がないからだ。

絵画におけるエンコード・デコード

まだみんな息をしているだろうか。先ほどの話に戻ると、今回、その作者がその絵を「昔の写真のように」描きたいと思って描いたかはわからない。だが、仮にそうだとすると、「昔の写真という認識」を用いてエンコードしたのが今回の絵画である。それを見た人に「昔の写真という認識で見てほしい(デコードしてほしい)」と思っていたとしたら、私は作者の思惑を感じとれたことになる。
もしそうではなくて「超絶技巧の写真や現実みたいな絵がみたいんだ」というデコードをされた場合(一番最初の私)には、意図や素晴らしさは伝わらない。

ここで重要なのは、それは必ずしも一致する必要はないということ。芸術なのだから。作者がどういう意図で描いたのかはわからない。もしかしたら全然違ったかもしれない。でも私はそれを見て「昔の写真」というデコードを行い、その昔の写真が想起するリアルを感じ取った。
それで私が何かを感じ取ったならば、それでコミュニケーションは成立したのではないか。たとえそれが作者の意図と違ったとしても。

前者の小尾さんは自分の理解したものを自分の思うままにエンコードした。それを私たちはデコードして受け取る。そこに「リアルかどうか」という基準は全く当てはまらない。
そこに存在しているのは自分の伝えたいことをエンコードした作者の想いと、それをデコードした受け手の想いだけである。

そこまで考えて、ふと、これは私たちストーリーテラーも同じなのではないかと思うに至った。(実は私、映画監督なんです)

映画やその他のメディアにおけるエンコードとデコード

ここからの区切り線の中は一旦飛ばしてもらって構わない。


私は映画を撮るときに2つのことがうまく伝わるように心がけている。
「伝えたいこと」「何が起きているか」である。
前者は「テーマ」であり、後者は「プロット」である。
大体において映画を作る壁は、プロットがうまく伝わらず、テーマは全く伝わらない、である。
世の中に出回っている、「こんな展開ないわー」と叩かれまくっている映画でさえ、「こんな展開ない」ということが判断できるくらいに内容が伝わるようにできている。そこに至らない映画は「え、何が起きた?この人誰?急にどうなった?」のオンパレードである。
それがうまく伝わって、更にそこから「テーマが伝わるか」という勝負になる。監督はもちろん「テーマ」を伝えたい。でも視聴者は「プロット」のことしか理解しない。
なぜかというと、テーマは明示しないで、見た人が感じ取れる、ということが大事だからだ。
だが監督は勝手なので、テーマが伝わらないと「なんで理解してくれないんだよぉー!!」と悶絶七転八倒斎に早替わりする。長いので割愛する。


写真だけでなく、例えば私が撮る映画でも、実は同じエンコード、デコードが起きているのではないだろうか。
私がこの世界を観て、理解したことを切り取り、ある一定の尺のストーリーに落とし込む。どういうショットにするか、どのシーンを入れてどこを入れないのか、取捨選択しながら、エンコードする。そこには当然、私が観てきた膨大な数の映画や本などからの認知に関する影響(コーデック)が作用する。
そして、それを映画館でスクリーンに投影し、それがお客さんに届いた時に、そこで観客のデコード処理がされ、ストーリーは復元される。
観客一人一人が持っているコーデックは違い、デコードされて復元された作品も全く違う。だから同じ映画を観ても賛否両論であるし、大衆的にみればこんな映画が?というものが映画祭で受賞していたりする。

「映画はお客さんに観てもらって完成」の本当の意味

映画を作る人ならば、誰しも一度は「映画は観てもらって完成」という言葉を耳にしたことがあるだろう。作っただけではダメで、それを配給し、映画館でかけてもらい、お客さんを呼ぶという尋常ではない苦労を表した言葉である。観てもらうことで映画というコミュニケーションは完結する、と。

だが、今日のこの経験で、それは全く別のレベルでの実感を持って私の脳に刻み込まれた。私たちがエンコードした作品が観客によってデコードされて復元された世界、それこそが映画の最終型なのだと。

「まあつまり、作り手の届けたいことが届くかどうかは結局お客さん次第だよね」と言われればそれまでなのだが、少なくとも作り手である私は、編集した一本の映画を完成型だとどこか固く信じていただけに、今日のこの2つの体験は文字通り雷に打たれたようであった。

表現者(および全人類)の宿命

これは表現者であれば、そしてそうでなくても誰かとコミュニケーションをするにあたって必ず起きていることなのだろう。私たちは伝わることを信じて絵画や映像や言葉や表情でエンコードし、相手に伝わることを信じてパスする。相手はそれをデコードし、メッセージを受け取る。夏目漱石が「I love you」をエンコードすれば「月が綺麗ですね」になるように。(どうも俗説らしいです)

これは私たちの宿命だ。私たちは独立した個であるが故に、このエンコードとデコードを繰り返して生きていく宿命を背負って生まれてきたのだ。

インサイド リアリズム-超写実絵画と超絶技巧-のススメ

話は人類レベルまで大きくなりましたが、そんなわけでこの展示、絵画はもとより、写真、映像、あらゆるコミュニケーションを伴う芸術に携わる方におすすめです。
(めちゃくちゃ推してますが全く部外者ですし一円も貰ってません)
また、私のデコード結果なのであなたのデコード結果が満足いくものかは保証し兼ねます。でも渋谷に行ったらちょっと立ち寄ってみてもいいのでは?

会 期 2025年1月18日(土) - 2025年2月 9日(日)
時 間 11:00 - 20:00
場 所 Bunkamura Gallery 8/
料 金 入場無料

画像転載元:https://www.hikarie8.com/bunkamura/2024/12/post-14.shtml



いいなと思ったら応援しよう!