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映画『お引越し』(相米慎二監督 / 1993)について
相米慎二監督の映画『お引越し』が4Kリマスターになって劇場公開となったので鑑賞してきました。2025.01.12
映画監督・相米慎二
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相米について書くなんて恐ろしい…というのもその圧倒的な作家性とあまりにも多くのファンがいて、早世で残した作品もそこまで多くないことも相まって伝説的な存在となっているからである。
『セーラー服と機関銃』『台風クラブ』など、タイトルだけでも聞いたことがある人は多いのではないだろうか。
その特徴は、なんというか、ちょっとヘンなのである笑
ヘンであるが故にとてつもない魅力を放っているというか、一筋縄ではいかない面白さがある。そこに皆魅了されていくのではないかと思うし、これこそ映画でしか味わえない感覚なのだろうと思う。
『お引越し』という作品は5年ほど前に配信で観た以来であるが、改めてこの映画を手がかりに、相米映画の魅力、といったものを書き連ねてみたいと思う。
※若干のネタバレを含みます。
物語について
映画『お引越し』のあらすじを引用する。
京都に住む明るく元気な小学6年生、レンコ。父ケンイチが家を出て、母ナズナとの二人暮らしが始まった。ナズナは新生活のための規則を作るが、レンコは変わっていこうとするナズナの気持ちがわからない。離婚届を隠したり、自宅で籠城作戦を決行したり、果てにはかつて家族で訪れた琵琶湖への小旅行を勝手に手配する…。
もっと要約すると、離婚の危機に面した両親を前に奮闘する娘の心の動きを躍動的に描いた作品だ。
相米の語り口は、わかりやすい起承転結というか、ひとつひとつの壁をクリアしてゴールに向かうような直線的なものではない。
主要人物たる娘レンコ、母ナズナ、父ケンイチだけでなく、その周りの人間たちそれぞれが重層的な心の動きを見せ、それがレンコの視点を通してアンサンブルとして観客を包み込む。
正直、見終わった後に何だったんだこの映画は、という混乱に似たスッキリしなさを感じる。しかし、それはそうなのだ。レかつて愛し合い、3人仲良く生活していたはずの父と母がいざ顔を合わせるや口喧嘩は止まらず、お互いの想いの平行線を見せつけられても、レンコの目線からはわからないに決まっている。
それにやっぱり、人間の心って芯まではわからないものだ。
受け取り方が見る人それぞれの立場や環境、その時の心の有り様などによって、燃え盛る炎のように、刻々と形を変える入道雲のように、風に揺れる木々のように、突然降り出す大雨のように変化していくような作品のように思う。
躍動感と身体性
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相米慎二の映画の魅力としてよく挙げられる点に、1シーン1カットの多用やそれに伴う長回し、流麗なカメラワークがある。
映像技術的な言い回しとしてわかりやすい故にピックアップされがちであるが、その本質は映し出されている被写体にある。
カットを割らないということは、メタ的にではあるが、その映像に映し出されている被写体(役者、背景、その他の事象含む)の演技が地続きであるこの証左であり、演出家がその流れこそを重要視していることである。
そこには編集で創り出される流れとは違った魅力がある。
基本的に一つの流れとしてのお芝居を、そのカメラワークを駆使してとらえることになるため、クロースアップによる感情の抽出はあまり行われない傾向にある。その分、身体全体を使った感情のやり取りが俳優によって行われる。かといって芝居が全体的に大きいとかそんなことはなく、些細な手の動き、顔の向き、表情だけによらない感情を全身から汲み取れる感受性を観客は持っている。
(注:映像というメディアは編集やクロースアップといったカメラワークを駆使することで、そういった情報を誘導させる力を持つ。)
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特に相米映画においては、俳優のそのもの感というか、ヘンな動きみたいなものによって感情の高ぶりや不安定さみたいなものを目に見える形に現然させようとしているように思う。
映画『お引越し』においても、レンコは突然逆立ちしたり、タンスの中に入ったりする。他の相米映画もそうなのだが、俳優が床を這いずり回ったり側転したり、踏み台昇降運動を繰り返したりといった不可解にも見える運動が起こることがある。
人の心は見えない。見えないが故に、その動きから可視化させる。そしてその運動といったものはその俳優の身体的特徴、運動神経みたいなものを浮き彫りにし、その人がその人でしかないことを目の当たりにさせる。
走るという動作にしてもそうだ。走るレンコとそれを追いかける母、さらに追う先生といった構図を一つの画面に入れ込むことによって生じる身体性、動いているトラックの荷台に飛び乗るレンコの身体性。歌うことや演奏することだってそうであろう。
その役者がその人物として生きるという躍動性(どんくささも含む)みたいなものを、作家は描き、映し続けていたのだと思う。
気象・土地・祭り
映画『台風クラブ』がその名を関した通り、相米の映画では気象現象を演出の味方にすることが多い。
映画『お引越し』においては梅雨の季節から真夏を経て秋に差し掛かるまでを描いている。
レンコが同級生の親が離婚した後にすぐ別の伴侶を見つけていたという話を聞いて(それまで坂道を必死で自転車を押す姿もまた愛くるしい)、突然バケツを引っくり返したような雨が降ってきて走り去るエピソードなども印象的だろう。
そこに降る雨には必ず作劇上の意図が生じる。
また火の多用も印象的だ。
父が燃やそうとする家族写真、母の別居後に吸い始めるタバコ、不審火のラジオニュース、言いがかりへの対抗手段としてのアルコールランプ、さらに五山送り火や花火大会。
すべてがレンコのひと夏の経験として、感情の記憶とともに深く結びついていくに違いない。
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京都という街を生活の場として描ききったことも注目すべき点だろう。祇園祭と五山送り火両方を作劇に取り入れていだけでも驚異的だが、生活の場としてお囃子の喧騒の中での市民生活の様子を当たり前のように差し込んでいる。祇園祭の開催地たる烏丸付近にあるオフィスビルの上階にいる父と、その真下の公衆電話から電話するレンコという構図を一枚絵で見せながら、電話の奥から聞こえる祇園囃子の聞こえ方で父がレンコがすぐ近くにいると気づく、という演出はお囃子の調子が各鉾によって違うことを的確に利用していて、驚嘆に値する。何より、京都で10年近く住んでいた身としては、歴史的・文化的・観光的な都市である京都をそのどれよりも生活の場として描いていることが魅力的だ。
====以下需要なネタバレを含みます====
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映画のクライマックスシークエンスにあたる琵琶湖近辺においては、祭りの意味ががらっと変わってくる。それまで生活の一部として描かれていた京都の祭りと一転し、祭りの様相がより宗教的な、というよりプリミティブな意味合いを強くして、レンコの精神とつながっていく。大群集の花火大会のさなか、母に「早く大人になる」と叫ぶレンコ。そこに初潮の気付きのような動作があった後、レンコは1人駆け出し、火祭りを目撃し、真夜中の森林へと迷い込み、湖畔で気を失ってしまう。突然の白昼夢のような場面に戸惑いは隠せない。この場面に漂う死の匂いとでもいうのか、失うという感覚を幻想的な映像から受け入れざるを得ない感覚に陥る。湖の奥からどこからともなくやってくる龍の装幀が施された船に、かつての仲睦まじかった家族3人の姿が浮かび上がる。かつての自分と、それを見ているレンコが抱き合うと、レンコは「おめでとうございます」と叫ぶ。何度も叫ぶ。両親は湖の中に消えていき、船はやがて燃え尽きてしまうのだけど、別れでも、礼でもなく、祝福を叫ぶという、そうでないようでいて当然の帰結。レンコの死を予感させつつ、それまでのレンコを見ていたら決してそうはならないだろうという期待とでもいうのだろうか。そこによくわからないけど納得し、感動してしまう。このよくわからないけど、という感覚が重要な気がしている。
レンコは目を覚ますと、枕元でくすぶっていた焚き火にネタを焚べ、炎はたちまち燃え盛っていく。そりゃそうだ。レンコ、お前は生きていくんだ。
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終わりに
映画『お引越し』を起点に、よりたくさんの人に相米映画を見るきっかけになればという軽い気持ちで書き始めた記事が、脈絡のないややこしい文章になってしまった。
評論というには論理に欠け、感想と呼ぶには理屈っぽい文章になってしまったが、今の自分の書きたいという気持ちに抗わずここに残すことにする。
映画『お引越し』についてはnoteで見つけた下記の記事が、より作品理解の入口となるのでぜひ読んでみてほしい。
また、相米慎二監督の作品は現代の映画作家にも大きな影響を与えており、とくに本作『お引越し』にもインスピレーションを受けたであろう映画『こちらあみ子』(森井勇佑監督 / 2022年)はぜひご鑑賞いただきたい。
相米映画の魅力とはなにか。
ひとことで言い表すには難しいが、よくわからないぐしゃぐしゃな感情のまま、うっすらとしたこれからを知覚できること、とでも言い残しておこうか。
何をいいたいかは自分でもわからない笑
映画は好きですか?
Thank you for your watching