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はじまりのはなし…拘束感⑤

「私が光の粒だった頃…決して自由ではありませんでした。
手も足もございませんから…動く事も容易ではありませんし、コロコロと転がる事は出来ますが、永遠に広がる真っ暗な空間には、距離も時間もないのですから、全く意味を持ちませんでした。
まるで小さな籠の中で滑車を回すハムスターのように、何処にも行く事は許されませんでした。
見渡す限り暗闇なのですから、何かを選び出そうにも、その物質自体がなく、全てが空なのであり、選択肢の矛先にはそのまま空が鎮座し続けるのです。
私は掴み所もなく、宙吊りのまま縛られた状態で、惨めに足掻き、空を拝むのです」

もしも彼女がはじまりの話を語らなくなったのなら、明日にでも退院出来るのだろうか?

入院して一年は過ぎたが、残念ながら今のところ退院の予定は立っていない…さすがに彼女も外の世界が恋しいだろう…最近は、この狭苦しい病室にある小さな窓ばかり眺めている。

ただ、困った事に先日その外界との唯一の接点である、小さな窓に鳩の糞が付着してしまった。しかし、糞を取り除きたくても、窓には格子が付いていて開ける事が出来ない…窓ひとつ開ける事も許されない…そんな現状に苛立ちが込み上げるが、我慢するしかない。
僕はもどかしい気持ちを彼女に気付かれない様に繕いながら…今は雨が降る事を待つしかない。

そんな事を考えていると彼女は知ってか知らずか…さっきから、その小さな窓に放射された鳩の糞をじっと見つめながら微笑んでいる。

何を考えているのだろう?

鳩の糞から生命の力強さでも感じているのだろうか?

いや…またいつものようにとぼけた事ばかり考えているのだろう…

「ねぇ…鳩が増えたよねぇ」

「うん…そうかもね」

「院長先生が餌でもあげてるのかなぁ?」

「それは無いでしょう」

「窓の糞...落ちると良いね」

「そうだね...」

「悔しいな...もう直ぐ花火大会なのに」

「そうなんだ...」

「この窓から見えるって...看護婦さんが教えてくれたよ。一緒に見れると良いね」

「そうだね...」

毎年夏になると、この病院からも隅田川の花火が小さく見えるらしい...僕は安易に彼女と一緒に見物する約束をしてしまったが、本当は心の中で、その願いが叶わない事を知っていながら沈黙している自分がいた。どれだけ頑張ったとしても、彼女は睡魔から逃れる事が出来ないだろうし、最近処方された抗うつ剤の効き目が強いのか?相性が良いのか?以前にも増して睡眠時間が長くなっている様に思える。

ただ、打ち上げられた破裂音に誘われて、ぐっすりと眠った彼女の夢の中で、火花を散らした花火の記憶が、咲き誇る事を期待するしかない。

「鳥になる夢とか見た事ある?」

「どうだろう…あったかなぁ?」

「私ね…最近よく見るんだぁ」

「そう、羨ましいなぁ...」

「羨ましくなんてないよ…ずっと羽ばたいてないと落ちちゃうし、大変なんだから…」

「夢の話でしょ?」

「そっか…」

僕の祖父は朝食を食べ終えるといつも近くのお寺で鳩に餌を与えていた。

子どもの頃はそんな祖父に誘われて、一緒にお寺に行く事が毎朝の日課だった。

祖父はいつも優しくて…物静かだけど、いつも笑顔で…一緒に居られるその時間はとても幸せな時間だった。

母が言うには元々頑固で気難しかった祖父が変わったのは、初孫である僕が生まれてからだと言う。週末には玉ねぎと豚バラ肉をたっぷり入れたサッポロ一番塩ラーメンを作ってくれたし、夜には同じ布団で寝てくれた。

寝る前には絵本や昔話を読み聞かせてくれたり、祖父の貴重な戦争での実体験を話してくれる事もあった。祖父は元海兵で、終戦間際には乗船していた船艦に魚雷を当てられた事があるらしい。沈められた船の端切れに掴まって岸まで泳ぎ、命辛々逃げ延びたと言っていた。

「船の上でね...犬を飼ってたんだ」

「ワンちゃん?」

「そう...そのワンちゃんは、犬掻きが上手かったよ。あのワンちゃんと一緒に泳いでなかったら、お爺ちゃんは助かってなかったかもしれないよ」

そう言うと祖父は隣でスーっと眠ってしまった。蚊帳の中で焚いた蚊取線香の匂いに混じって、祖父からは少しだけ海の匂いがした。

「鳩はね、平和の象徴なんだよ」

鳩に餌をあげながら、祖父はどんな事を思い出していたのだろう?死んだ戦友の事だろうか?

幼稚園から小学校に上がる頃...そんな優しい祖父が近所の人達から変人扱いされている事に薄々気づき始めた。町に鳩が増えると不衛生だと家まで文句を言いに来る人もいた。そんなタイミングで、僕は自然に祖父と距離を置くようになり、だんだんと喋らなくなってしまった。
そして、小学1年生の夏に祖父は他界した。

鳩を見る度に祖父の事を思い出す…鳥になる夢は見ないが、祖父とお寺に行って鳩に餌をあげる夢はこの歳になってもよく見る。

「もしも退院したらさぁ…奈良公園に行って鹿に鹿せんべいあげようよ。」

「鹿かぁ〜…鳩じゃダメなの?」

「鳩って何食べるのかなぁ…鳩サブレ?」

「やっぱりパンの耳かなぁ…子どもの頃に…お爺ちゃんとさぁ…」

彼女から退院した後の話を聞くのは久しぶりだった…入院したばかりの頃はそんな事ばかり話していたのに…最近は話さないようになっていた。

昼過ぎまでの彼女は、なぜ入院しているのか分からなくなるくらいに明るくて元気だ。

しかし、夕方になるとその様子は一変し、表情は消え…声が小さくなり…ガタガタと震え出したかと思うとはじまりの話を語り出す。

「カーテンを閉めて下さい…夕陽が怖いので…夕陽に照らされると影が伸びるでしょう…実体よりも大きくなった影は、その実体の自由を奪ってしまうのです。そして、大きくなった影は実体をゆっくりと飲み込んで暗闇と同化し、空へと帰るのです」

続く

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