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第6回「必然ということばは社会的で、偶然ということばは個人的である」(寺山修司『幸福論』より)

このマガジン「デザインという営みにコピーを与えてみる」では、デザインにコピーを与えるという目標に向かって「デザインを語ることば」を集めています。第5回では安部公房の「小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を作者が提供し、読者はそれを体験する」を紹介しました。

さて、第6回でご紹介し、書き留めておきたいのはこちらです。

必然ということばは社会的で、
偶然ということばは個人的である。

これは、言葉の錬金術師とも呼ばれた劇作家・寺山修司が『幸福論』のなかで述べたアフォリズムです。

まだデザイン学生だった2006年頃、新潮文庫の『両手いっぱいの言葉』でこの文章に出会いました。当時は、わかったようなわからないような気持ちになったのを覚えています。

芸術やデザインと向き合い、それなりに経験を言葉にできるようになってきた2015年頃。北海道大学オープンエデュケーションセンターの活動を、北大の新入学生に紹介するチラシをデザインする機会がありました。

この時、「必然ということばは社会的で、偶然ということばは個人的である」というアフォリズムが、頭の片隅にありました。

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ボディコピーを引用します。

新入学生のみなさまへ

一度きりの偶然が
人生を変えることがあります

たまたま手にとった一冊の本が
人生を運命づけることがあります

偶然聞いた講義が
学問への扉を開くことがあります

出会いはいつも偶然です
でも、つかみ取ったその時から
必然といえるのかもしれません

わたしたちのミッションは
北大が誇る「学び」の数々を
教材として公開し
みなさんに役立ててもらうこと

たったひとつの教材が
人生を変えることがある

みらいのあなたに
そう言ってもらえることを目指して

ちなみに、教材のタイトルを一面に敷き詰めたビジュアル表現は、無意識にものごとを選択する脳のクセを逆手にとったデザインです。偶然、目に飛び込んできたタイトルには、その人にとって重要な意味があるかもしれない。そこで、句読点や文脈なしに、教材のタイトルをフラットに並べて配置しました。

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デザインの過程で、偶然と必然について考えをめぐらせました。

社会には、いろいろなチャンスが散らばっている。チャンスとの出会いは偶然に左右された個人的なものかもしれない。そのなかから「これだ!」と思うものを選びとる。自ら選び積極的にコミットするようになると、いつしか社会と出会い直すことになる。社会に対して、受け身ではなく、主体的・創造的に関わっていくことになる。

この解釈に至った時、寺山修司の言葉が、デザインのプロセスを象徴しているように見えてきました。

デザインは、偶然を必然にするプロセスに突き動かされている。

個人的なものを、社会的なものにするプロセスに突き動かされている。

こうした意識のあり様が、寺山修司の言葉とリンクしたのです。
そしていま、あらためてこの言葉と向き合ってみようと思ったのでした。

偶然と必然。
個人的なものと社会的なもの。

寺山修司は、これらを組み合わせて「偶然=個人的」で「必然=社会的」だといいます。そこが面白い。

ここを出発点に、連想ゲームをしてみます。

・偶然=個人的=身体的=動的=調和=世界そのもの=セミラティス構造
・必然=社会的=言語的=静的=偏向=世界の見方=ツリー構造

現在のわたしは、千変万化する「偶然」のなかに、ある種の因果やパターンを認めて固定化した結果が「必然」(=ものの見方)であるというふうに捉えています。

言葉にならない何か(=偶然・個人的)を他者と共有するために、社会文化的に意味のある言葉やかたちに翻訳する(=必然・社会的)という作業は、すべての制作活動が持つ宿命でもあります。

とはいえ、「偶然」と「必然」という言葉は、わかるようでわからないものだなぁ...と、あらためて感じます。

ところで、寺山修司はどのような文脈でこのアフォリズムを書いたのか。今更ながら『幸福論』を読んでみることにしました。


『幸福論』における「偶然と必然とを分類したリスト」

まず、『幸福論』は次のような章立てです。

・マッチ箱の中のロビンソン・クルーソー
・肉体
・演技
・出会い
・性
・偶然
・歴史
・おさらばの周辺部

寺山修司は一貫して、個人と社会の接点にあるさまざまな「認識の枠組み」を、おのれの想像力で再構築すべきだと主張します。こうした文脈で、偶然と必然が論じられたのです。

目当てのアフォリズムは、「偶然」と題された章の1行目にありました。その後、寺山流「偶然と必然とを分類したリスト」が紹介されます。

必然ということばは社会的であり、偶然ということばは個人的である。

ノーマン・メイラーは「オージイの心理学へのノート」の中で、ヒップとスクエアとを分類したリストを作り、それをおそろしく野心的な精神経済の資本論のためにモチーフにしようとしたと書いているが、私もまた偶然と必然とを分類したリスト作製を試みるとすれば、それはこんな表になるのである。

リスト
偶然 必然
詩         歴史科学
存在        本質
ドストエフスキー  トルストイ
暴力        権力
古代帝国      コンピュートピア
質問        回答
高倉健       三船敏郎
勝敗        レース
ジャズ音楽     電子音楽
血のついた斧    法医学
花         種子
セックス      化学実験
現在形       過去進行形
三派全学連     民青
探偵        精神科医
ブルース      砒素
心         お金
殺人か同性愛    癌

ーー寺山修司(『幸福論』「偶然」より)

いやはや、すごい連想力です。「個人的、社会的、という枠組みはどこへやら?」と思うほど、柔らかい発想が展開されている。

ところが、冒頭のアフォリズムにリストを代入してみれば、なるほどどうして。個人的あるいは社会的なものに結びつく何かが浸透してきます。

必然ということばは社会的であり、偶然ということばは個人的である。
   ↓
歴史科学は社会的であり、詩は個人的である。
本質は社会的であり、存在は個人的である。
トルストイは社会的であり、ドストエフスキーは個人的である。
権力は社会的であり、暴力は個人的である。
コンピュートピアは社会的であり、古代帝国は個人的である。
回答は社会的であり、質問は個人的である。
三船敏郎は社会的であり、高倉健は個人的である。
レースは社会的であり、勝敗は個人的である。
電子音楽は社会的であり、ジャズ音楽は個人的である。
法医学は社会的であり、血のついた斧は個人的である。
種子は社会的であり、花は個人的である。
化学実験は社会的であり、セックスは個人的である。
過去進行形は社会的であり、現在形は個人的である。
民青は社会的であり、三派全学連は個人的である。
精神科医は社会的であり、探偵は個人的である。
砒素は社会的であり、ブルースは個人的である。
お金は社会的であり、心は個人的である。
癌は社会的であり、殺人か同性愛は個人的である。

ところで、寺山修司とわたしのリスト(以下に再掲)を比較すると、表現の柔軟性や遊び心の差が歴然です。

・偶然=個人的=身体的=動的=調和=世界そのもの=セミラティス構造
・必然=社会的=言語的=静的=偏向=世界の見方=ツリー構造

寺山修司のリストは全体が波打っており、詩的な飛躍がある。それは、二項対立と対決する姿勢ともいえます。そして何より、説明的ではなく、読者の想像に訴えようとしている。なんとなくわかる、という質感を大事にすることも、精神を豊かにするために必要です。

対してわたしのリストは、「偶然」のなかにある種の因果やパターンを認めて固定化した結果が「必然」である、という二項対立を前提に、明確な線引きを試みている。

自分自身で設定した「ものの見方」によって、必然的に見えなくなっていた領域が、寺山修司のリストを通して照らし出されてきました。

寺山修司は次のように述べています。

知りたい、知りたい、と思いつづけてきた人間にとって、偶然の出来事、思いがけない「知られざる発端」は許しがたい事である。歴史の流れには、必然と法則があり、偶然はその例外であるとする考え方──その偶然の原因をつきとめて、必然化してしまう企みは正当であるかどうか、問題である。アリストテレスは「偶然なるもののなかには、恒常的でない真実というものが存在している」(詩学)と書いている。偶然に関する科学が、たとえどのように存在しようとも、それは無駄なことだ。人は、偶然なることを「科学的認識によって、必然化し得た」としてもそれで幸福になれるのではない。偶然の本質、偶然をそれ自体の存在として受けとめようと思い立ったときに、はじめて自由になれるのだ──と大学生の私は思った。そして、その考えは今も変っていない。
ーー寺山修司(『幸福論』「歴史」より)

寺山流「偶然と必然とを分類したリスト」との出会いは、わたし個人の認識の限界膜に針を指すような出来事となりました。こんなとき、原典にあたって良かったと思えます。


寺山修司の『幸福論』、そしてデザイン

さて、寺山修司にとっての幸福論は、「書を捨てよ、町に出よう」という彼自身のテーマそのものです。書物で代理の人生を味わうのではなく、自ら人生を味わい、現実と対決することによって、幸福がそれ自体として生きてくるというわけです。

彼は、従来の幸福論を「書物の中に構築されている思想」であり「認識学の学習である」として批判します(書物で書物を批判するのを嘆きながら)。

私たちの時代に失われてしまっているのは「幸福」ではなくて、「幸福論」である。幸福がそれ自体として生きるためには、それを生かすための幸福論がなければならないのだが、書店の片隅では、今でもアランやヒルティの、役にも立たない幸福論が埃をかむっているばかりだ。
ーー寺山修司(『幸福論』「マッチ箱の中のロビンソン・クルーソー」より)
日常的な小満足を、幸福としてとらえ直すためには想像力の助けが要る。そして、その想像力は、体験に意味を与えるだけで終始するような、従来の幸福論とは、別のものである。
ーー寺山修司(『幸福論』「マッチ箱の中のロビンソン・クルーソー」より)
幸福であることが他人に対しても義務であることはもちろんだが、自らの毒気を消化し、言い足りない怒りをさえ浄化してしまうような「幸福論」は、ほんの気紛れにしかならないだろう。
ーー寺山修司(『幸福論』「マッチ箱の中のロビンソン・クルーソー」より)

彼は、アランなどくそくらえ!と叫び、たとえば理想と現実の矛盾に蓋をしたところで幸福ではないだろうと主張します。現実に真摯に向き合い、それと対決するような「日常的な冒険」のなかにこそ、幸福が生きはじめるというのです。

次の一節には考えさせられました。

 私の詩のなかには
 いつも汽車が走っている
 だが私はその汽車に乗ったことがない

この「幸福論」は、いわば自分の詩の一行から抜け出して、町へ出てゆくことである。

ーー寺山修司(『幸福論』「マッチ箱の中のロビンソン・クルーソー」より)

詩を読むという体験は、確かにわたしたちを何処か新しい土地に連れて行ってくれそうです。しかし、詩という書物のなかには、乗ったことのない汽車が走っているだけ。

汽車は言語のメタファーでしょう。「マッチ箱の中のロビンソン・クルーソー」という問題提起とも重なります。この舞台設定に、寺山修司の問題意識が刻みこまれています。つまり、汽車に乗り込む肉体、あるいは自ら駆け抜ける肉体が大切なのだと。

書物の歴史性を、現在化してゆくのは「読者」の肉体である。
ーー寺山修司(『幸福論』「肉体」より)
私は、書物の歴史性によっては人間の「幸福」はとらえられぬ、と書いた。それは、さまざまなメディアが環境化してくる状況の中で、かたくなに自分の肉体の中で居直って、コルトレーンやマル・ウォルドローンのジャズのように、暴力的に燃焼するべきであり、言葉以後の精神の狩猟であるべきものなのだ。
ーー寺山修司(『幸福論』「肉体」より)

やはり、肉体と言葉との対決について語っているように思えます。

幸福を「幸福」という概念で捉えるだけではだめで、肉体を通して精神の狩猟をおこなってはじめて、幸福がそれ自体として生きる。辞書的な「幸福」ではなくて、その人固有の幸福が姿をあらわす。

この問題意識は、詩を生み出す本質的な心持ちについてボルヘスが語っていることと共鳴しています。わたし自身のノートから引用します。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスが面白いことを述べています。ある事柄を定義できないからといって、それについて無知であると思い込むことは誤りだというのです。むしろ「何かについて何も知らないときのみ、その何かを定義し得る」とボルヘスはいいます。

たとえば詩の定義を試みたとします。出来上がった定義は、辞典や教科書には十分でも説得力に乏しい。もっと大事な何かがあるはずだ。このとき詩人は、この何かに励まされて「詩を書くことを試みるだけでなく、詩を享受し、詩のことなら何でも心得ているという気にもなる」というのです。

ボルヘスは、何かに言葉を与え、さも何かを言い得たかのように思い込むことが無知だと述べているのでしょう。わたしたちは、詩や音楽、社会について、本能的に何かを心得ています。心得ているからこそ、定義してもし尽くせない感覚を抱き、もっと大事な何かがあるはずだと考えるのです。

ーー筆者(「Drawing Poetry:学習と創造のプロセスを描き出すための制作学(poïétique)」より)

言葉というデジタルな道具と、肉体というアナログな存在。この両者のギャップを漸進的に埋めようと試み続けることが、寺山修司がいう思想的体験や幸福につながっていきます。

寺山修司は、こうも述べています。

 私はこの「幸福論」を論理として、その対極に実践を置くということには反対である。私には、「理論と実践」とか「上部構造と下部構造」といった二進法が、あまりにも明快すぎてかえって正体不明に思われる、からだ。
 「表現」があるからには「裏現」があるはずだ、と書いたのは大久保そりやだが、私はこの「表現」「裏現」の関係を突き破るものとして、「実現」ということを考えないわけにはいかない。幸福論は、表現されるのではなくて実現されるのだ。
ーー寺山修司(『幸福論』「おさらばの周辺部」より)
幸福論は、いつでも流動するが、同時に「一般的理性」などというものの存在しない時代にあって私の要求する世界状態というのは、「理性の偶然性」との絶えざる緊張関係をはらんでゆくということなのである。
ーー寺山修司(『幸福論』「歴史」より)

寺山修司の『幸福論』は、正直いって捉え難いものです。しかし、その捉え難さが本質なのだと思えてきます。というのも、書物を通して書物を批判するという荒業を成し遂げようとしているのですから。

ただここには、他人の受け売り、あるいは無意識に前提としている思い込みから自分の力で脱出すべきだ、という強い主張が込められているのは確かです。この主張には、プラグマティスムや構成主義的な認識論と近いものがあり、デザインの営みとの相似を感じさせます。

この営みを、「自分の肉体の中で居直って、コルトレーンやマル・ウォルドローンのジャズのように、暴力的に燃焼するべきであり、言葉以後の精神の狩猟であるべきもの」と表現する寺山修司には脱帽してしまいます。


おわりに

今回は、「必然ということばは社会的で、偶然ということばは個人的である」という言葉からはじまり、寺山修司の『幸福論』の根幹にある思想にも、デザインの営みを感じとることができました

今後も引き続き、わたしにとって魅力的な、「デザインを語ることば」を紹介していきたいと思います。


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