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「ことば」を知ること

世の中には、色々な言語がある。

英語、韓国語、中国語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、アラビア語、エスペラント語、、、。

私の母国語は、日本語。
そして、手話もわかる。

「手話」と書いたけれど、日本で使われる手話には、2つあって、「日本語対応手話」と「ろう手話(日本手話)」
私は、このどちらでも出来るが、ろう手話の方がビデオの早送りみたいな感じで早くスピーディーに視覚で捉えることが出来るから好きだ。

さて、耳が聞こえない子供たちに「口話(口で会話をすること)」か、「手話」のどちらで教育を行うべきか?という話題が、至る所で盛り上がったりしているが、私は、その前に「ことば」の本質を考えなければならないと思う。

耳が聞こえないという事は、街の中を歩いていても、自然と「ことば」が耳の中に入ってこない、いわば、情報取得が困難であるということ。
補聴器をつけていても、100%聞こえる人と同じ聴力にはならない。

だから、電車などの公共交通機関で人身事故が起きたりすると、車内放送が流れてくるが、人によっては、放送が流れてきたことは分かっても、それが何を言っているのかはわからない。

そのような感じの「聞こえ」であるから、「ことば」を知るのも、聞こえる人とは違って、誰かが教えてあげないとわからない。

そうすると、親が子どもに必死になって「ことば」を教える。

しかし、親が聞こえる人で、「手話」を全く知らなかったりすると、親も「手話」を取得しなければならず、取得することにためらいが出たり、世間体を気にする人もいないわけではないと思う。
そこで、「手話」が100%公用語ではない、世の中を鑑みて、「口話」の方が、将来的にも役立つ、お店などで困ることはない、など色々と考えて、一生懸命「口話」での教育に力を入れると思う。

また、親が聞こえる人で、「手話」を子供のために取得して、子供と「手話」で話している人たちもいますし、「口話」と「手話」の両方を取り入れている親もいます。

どちらも、我が子のためなら!と一生懸命頑張っている親の姿ですし、間違いではありません。

私は、幼年期に「ことば」を覚えるには、「手話」が最適だと思っています。

私が幼い時には、家の中のあらゆるものに、「ことば」が書いてある紙が貼られていて、親に「これは何?」と貼っている紙を指さしされるたびに、口で答えなければいけませんでした。
しかし、「さしすせそ」がうまく言えない私にとっては、「そうじき」「いす」などの単語がうまく言えなくて苦痛だったことを覚えています。
しかし、手話だと、紙に貼らなくても視覚で見て、そのまま答える事が出来るので、「ことば」を覚える速さが違ってくるはずです。

「ことば」を覚えることと、「発音」を訓練することはまた違いますね。

幼年期は、言いたい「ことば」がわからず、癇癪を起したり物を投げたりしていましたが、「これは嫌」「これは好き」「これは嫌い」というような言葉を知っていたらまた違っただろうなと思うのもあります。

「口話」での指導も、とても大事だということは、自分が経験してきたうえで、知っていますが、どちらかといえば、親が「なかなか出来ない」(クリアしてくれない)ことへの焦燥感から、イライラを感じたり、子供も、そのイライラを感じ取ってしまって逃げてしまったり、泣き出したりして、「ことば」を覚えるスピードが遅くなってしまったりします。

欧米では、無理やり「口話」を覚えさせたり、指導することは児童虐待にあたるという、法律もあるぐらいなので、世間体を気にして、「手話」は絶対に使わない!という考え方を少しでも無くせればいいなと思う。

「口話」が出来る子供も、「手話」が出来る子供も、お互いに円滑にコミュニケーションが取れるような社会になってほしいと、強く願うばかりです。









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