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労働社会の本質はすべて「Pretender」が教えてくれる ―ブルシット・ジョブ編―

序論

皆さんは「Official髭男dism」というバンドをご存知だろうか。

Official髭男dism(以下髭男)は、2018年にドラマ『コンフィデンスマンJP』の主題歌にインディながら抜擢され、同年に『ノーダウト』でメジャーデビューを果たした島根県出身の4人組バンドである。

デビューの翌年、2019年公開の映画『コンフィデンスマンJP』の主題歌である『Pretender』が大ヒットし、髭男は日本における音楽シーンの注目の的となった。若い世代から絶大な人気を獲得し、今や米津玄師と並ぶ、大ヒット映像作品の主題歌を担当する常連アーティストだ。

そんな若い世代、特に高校生に人気である「髭男」が、社会派のバンドであることはあまり知られていない。

本稿はそれを皆さんに知ってもらおうという試みだ。

  • 〈ブルシット・ジョブ編〉で現代社会の無意味な「労働」を明らかにする。

  • 〈ベーシックインカム編〉でベーシックインカム(BI)の実現可能性・その効果・懸念点を確認し、ディーセントワークと上村氏の政策構想について紹介する。

  • 〈働く意味と自由編〉でアーレントの議論を基に、社会的責任と自由について考察する。

  • 〈歌詞解釈編〉で「Official髭男dism」がなぜ社会的であるかを『Pretender』の解釈とともに明らかにする。

読者の中には『Pretender』を労働の視点から考察すると聞いて「寝言は寝て言え」と思った方もいるかもしれない。確かにGoogle検索で「pretender 歌詞」と入力すると、

というサジェストが上位を埋め尽くす。かく言う私も初めてこの曲を聴いた時は、

「そんな好きじゃないのに顔が強いからとりあえず別れないでいる」…ってコト!?

ちいかわ 2021/3/25 より

と、ハチワレさながらの感想を持ってしまった。Googleサジェストからも同じように感じた人は少なくないのだろう。

しかし〈歌詞解釈編〉を読み終わる頃には、髭男は決して人々の恋愛観を平坦な言葉でペラッペラに歌うバンドではないということを認識いただけるだろう。

『Pretender』は現代社会、特に人間の労働についての深い洞察に満ちた曲なのである。

第1章:意味のない仕事たち

『ブルシット・ジョブ』

『Pretender』を理解するためには「ブルシット・ジョブ」について理解する必要がある。

アメリカの人類学者であるデイビッド・グレーバーは2018年(日本では2020年)に『ブルシット・ジョブ ーー クソどうでもいい仕事の理論』を発表した。世界中に反響を呼んだ同書の中で、グレーバーは「ブルシット・ジョブ」をこのように定義する。

「被雇用者でさえ、その存在を正当化しがたいほどに、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態」

グレーバー『ブルシット・ジョブ』

「ブルシット(bullshit)」の「シット」という語感から、安月給で社会的に価値があるかわからないクソのような仕事のことを連想してしまうかもしれない。

しかしグレーバーが批判の対象としているのは、むしろ「給与が高く」社会的に無意味で不必要な労働であり、これを「ブルシット・ジョブ」と呼ぶ。例えば、普段何をしているのかあまり判然としない中間職の上司たちのことを思い浮かべてみたい。

朝出勤してからぼーっとパソコンを眺め、
たまに指を動かし、
ふと立ち上がってコーヒーを買いに行き、
戻ってきたら周りと少しおしゃべりをして、
「あっ!会議あるんだった!」と言っては会議室に消え、
戻ってきたかと思えばまたコーヒーを買いに行き、
また少しおしゃべりして、
ときどき指を動かして、
ぼーっとパソコンを眺める。

会社とって何らかの利益をもたらす存在であるはずだろう。だがなぜ彼らが自分よりも多くの給与をもらっているかについては結局のところよくわかっていない。

このような例をはじめにグレーバーは人類学者らしくブルシット・ジョブを5つに分類し紹介する。

  • 取り巻き
    組織の他の人々に対して見栄を張るための存在。
    例: 受付係 / アシスタント

  • 脅し屋
    他人を威圧するための存在。しばしば攻撃的な戦術を用いて、競争相手や規制当局を打ち負かすことを目的とする。
    例: ロビイスト / 広報担当者 / 企業弁護士

  • 尻ぬぐい
    組織の構造的な問題や欠陥を修正するための存在。一時的な解決策の提供のみを目的とし、根本的な問題の解決は提供しない。
    例: サポートスタッフ / クライアントサービス担当者

  • 書類穴埋め人
    形式的な手続きを遵守するためだけの存在。
    例: 監査人

  • タスクマスター
    他の人々の仕事を管理するための存在。他人の労働状況を監視し、指示するだけの役割をもつ。
    例: マネージャー / コンサルタント

『ブルシット・ジョブ』には、これらの分類に当てはまる職業に就く人々の体験談が綴られている。ここではブルシット・ジョブのイメージを掴んでもらうために5つの分類を登場させたが、詳細については控える。気になった方はぜひ本書をお買い求めの上、読んでいただきたい(めちゃくちゃ面白いです!)。

他にも、保育士が1ポンド稼ぐごとに約7ポンドの社会的価値を産出する一方で、銀行家が1ポンド稼ぐごとに約7ポンドの社会的価値を破壊しているという話も登場する。

社会的意味はあるが給与が低い仕事のことを、グレーバーは「シット・ジョブ」と呼んでおり、保育士などのエッセンシャルワーカーがこれにあたる。「ブルシット」と「シット」の違いについては、名古屋大学准教授の上村泰裕氏作成の下記の表を参照されたい。

上村泰裕
『働くことの意味と保護 ―持続可能なディーセントワークの構想』, 2021より

シット・ジョブとの比較により1つの疑問が浮かび上がる。

「なぜ何もしない高給取りが自分の仕事に文句垂れているのか」

もう一度定義を確認すると、ブルシット・ジョブとは「被雇用者ですら」無意味であると思っている労働のことである。「何もせずにお金がもらえる仕事を辞めるなんて自分だったらありえない!」そう考えてしまうし、その状況を羨ましく思うかもしれない。

しかしグレーバーによれば、ブルシット・ジョブには社会的責任が一切ないという精神的暴力のほかに、職務の「あいまいさ」による精神的暴力があるという。

「何もしなくていい」という労働内容が職務規定に明文化されることはない。そして高給取りであるが故に、何かしているかのように振る舞わなければいけない。

この空気感が苦しいというのだ。確かに自分のこれからすることが無意味であると既にわかっていながらそれをやらなければならないのが苦痛であることは想像に難くない。

クソどうでもいいジョブの誕生

なぜ無意味で無価値な労働に対して高い給与が発生するという異様な事態が起きているのか。一言で表現するならば、経済を効率的に成長させなければいけないからだ。

ブルシット・ジョブを翻訳した酒井氏は、ブルシット・ジョブはネオリベラルが官僚制を生み出したことによって生まれたと述べる。効率的な生産、公正な評価には管理が必要になる。そしてそれらには厳格なルールが必要になり、それがやがて官僚制になっていった。

ダンバー数という概念がある。これは、人間が安定した社会関係を維持することのできる最大数を表す概念で、企業の設計などにも応用される。脳の新皮質の大きさとダンバー数は比例的な相関関係があると考えられている。人間にとってはおおよそ150ほどが限界らしい(チンパンジーやボノボで百数十)。信頼関係の有効範囲と考えればわかりやすいかもしれない。

企業も学校も国もそれぞれ一つの群れであり、グローバル化が進んだ今では地球自体を一つのコミュニティとして括ることも可能だ。つまり巨大な群れとしての人間社会では、お互いの信頼関係のみで社会を運営することが非常に困難なのである。

読者の周りには、ときどき事情をよく知りもしないくせに周りに文句ばかり垂れる人がいるかもしれない。しかし彼らはズバ抜けて想像力が欠如しているわけではなく、規模が大きくなったことで信頼関係を築きにくくなってしまったコミュニティに不安感を持っているだけに過ぎない。そのような人を見かけたらぜひ「新皮質ひかえめだなぁ」と思ってあげよう。

つまりダンバー数を超える群れを効率的に機能させるには、信頼関係における暗黙の了解となっていたルールを明文化しなければいけない。そうして徐々に組織や社会は官僚化されていく。

正当な評価と平等という点において、自由主義と経済成長主義の繋がりについても言及したい。経済における(新)自由主義とは、

  • 個人の自由と権利の尊重

  • 機会均等

  • 自由競争: 頑張った分報われる

  • 多様性

  • (大きい政府)小さい政府

が主な要素と言えるだろう。

近代になって伝統的価値観が崩壊し、多様性が尊重されるようになった。家父長的な「押しつけ」が鳴りを潜めた現代において、伝統的価値観の代わりになったものが「経済成長主義」である(小林)。

現代では、どんなに画期的で美徳に溢れる考え方でも他人に押し付けてしまうと、「いや、価値観は人それぞれだしー」ということになる。

非物質的な豊かさについての価値観は、非物質的である以上、その価値観がどれほど素晴らしいものであっても他者にその豊かさを定量性をもって証明することができない。

「足るを知る」は私の好きな言葉であるが、他人に「足るを知りなさい」と言われてしまうと「いやなんでお前に言われなきゃいけないん?」となってしまう。

言い換えれば、定量的な指標を提示することがインスタントに「押しつけ」を回避する唯一の方法ということだ。つまり「お金」を用いて豊かさを定量的に表現できれば、自由主義の特徴であった自由競争・機会均等・平等を表現しやすくなる。

「なるべく多くの人が平等に豊かさを享受できるべきだ!」という前向きな考え方が、こうして経済成長主義へとなっていったのである。

経済成長主義は、その目標が日本銀行元総裁の黒田氏によって明文化されている。あまりちゃんと読んでいない上で、ものすごくざっくりとした私の解釈を述べると「みんなが等しく豊かに、且つ安定的に生活できるように、年2%の成長を目標にいろいろ頑張りましょう!!」ということだ。

もしこれが半永久的に続くとなると数千年後には現在の数億倍の経済規模を想定していることになる。しかし地球における物質的な資源は有限だ。

つまりこの目標は非常に短期的な目線から設定されており、長期的な目線では非科学的で全く根拠に欠いてしまっている。これが経済成長主義が「主義」たる所以だ。

「なぜ人は成長しなければいけないのか」
「目に見える豊かさは本当の豊かさとは別物ではないか」

という疑問は本稿では未回答のまま、今後の考察のためにも一旦ここに置いておきたい。

「そもそもなぜ経済を回さなければいけないか」については薄〜い回答を用意した。それは「社会契約論」だ。

今や当たり前になりすぎて忘れてしまっているが、日ごろ私たちが享受する安全や私有財産などの権利は法律に、経済活動は国の規制によってある程度守られている。

もし税金が納められず国家が崩壊すると、そこは無法地帯となり、途端に私利私欲に任せた略奪行為が横行し始め、そのうち力のあるものが保護を理由に人を囲い、封建社会が再び登場するだろう。

そういった事態に陥らないよう、私たちは一定額を税金として納めている。一般的に収める額に比例して保護の種類や手厚さが変化する。私たちが納める税金の使い道がすべて正当なものであるかは別として、やはり納税はその義務たる所以があるのだ。

こうして、
「みんなが豊かに平等に暮らせるべきだ!!」
「みんなで成長しよう!!」

という経済成長「主義」が社会全体の価値観となる。こうして人々は一生懸命努力をして監視や管理のための規制を作るようになり、それをまた監視する者が現れ、といった具合に不必要な労働が増えていったのである。

ケインズの予言

経済学者のJ・M・ケインズは、1930年に書かれたエッセイ『Economic Possibilities for our Grandchildren』の中で、技術革新と生産性の向上により、2030年ごろには労働時間は週15時間程度にまで縮小するとの予想を立てている。技術の進歩と経済成長によって、将来貧困が解消されるというのだ。

ただ当時の需要に対応する供給を生産するために必要な労働時間が、2030年の生産性をもってして、1人あたり週15時間であるということだろう。現代においてこの議論が妥当であるかを検討する際、技術革新によって需要のあり方が大きく変化したことを踏まえなければならない。

インターネットの普及は需要の在り方に影響を与えている。以前には今まで欲しいとすら思わなかったものが欲しくなったり、食べたくなったり、経験したくなったりする。

そして情報のグローバル化はイノベーションを加速させ、今まで誰も想像もしなかったようなプロダクトが出現するようになった。現代は需要が供給を生み出すのではなく、供給が需要を生み出している。

もちろんいつの時代も需要と供給の関係は相互作用的である。しかし19世紀のアイルランドで「食べるものを生産できなければみんなが死んでしまう!」と考えることと、現代における「みんなにとって有益なサービスを創り出したい!」というベンチャー企業にありがちな考えはまったく別物だろう。ベンチャーの方は本当にそのサービスが必要とされているかについては見切り発車しており、19世紀のアイルランドの食料需要に比べたら、ベンチャーのサービスの需要はほとんどないに等しい。

もちろんイノベーションに関して言えば、すべてがまったくもって意味のない生産であるわけではない。まさに今私が書いているnoteのサービスも前向きな精神から生み出されたものだ。しかしどれほど金融政策を行なっても国民の消費活動が伸び悩んでいたり、所得が上がらないのは――富の分配が適切に行われていない点をいったん差し置いて――もう既にあらゆるプロダクトが生み出され尽くして、多様化した需要ですら満たされ始めた可能性を示唆しているように思える。

  1. 特に必要のないプロダクトを生み出す(起業家)

  2. その動作環境を整える(エンジニア)

  3. そのプロダクトの素晴らしさを伝える(マーケッター)

  4. その生産過程を整え管理する(マネージャー)

このように少なくとも4つの無意味な労働が生み出された。現実はこれをより複雑化させたものだ。

就業規則で定められている週の労働時間が40時間で、もし仮に現代のすさまじい残業時間と技術革新による需要の拡大がきれいに相殺されたとすると、やはりケインズの予想通り、25時間くらいはしなくてもいい労働となる。

この市場で発生した財は被雇用者には分配されず、その多くが資本家の懐に吸い込まれていく。ものすごく単純化すると、私たち労働者は資本家のために週25時間も無駄で無意味な労働に従事しているともいえる。なぜなら生活に必要な労働は週15時間程度で十分だからだ。

労働者は、なけなしの賃金で辛うじて食いつないでいるため、「この仕事、本当は必要ないんじゃないですか?」などと言い出すことはできない。淘汰されて消滅するはずの無意味な仕事が、不平等な雇用関係によって不自然にも残り続け、蓄積されたことでケインズの予測は大きく外れることとなった。

このように経済成長と生産性の向上が必ずしも労働時間の短縮に直結しないのである。

『ブルシット・ジョブ』への批判

本や論文を理解するコツは、その本に対してどのような批判がなされているかを理解することだ。ここでは4点ほど『ブルシット・ジョブ』に対する批判を紹介したい。

1, データのサンプルが偏っている

ブルシット・ジョブの初出は2013年の「On the Phenomenon of Bullshit Jobs: A Work Rant」というエッセイである。2018年に書籍として発表されるが、書籍に採用されているデータは、そのエッセイに共感した読者を対象として行われた調査を元にしている(上村)。そこで取れるデータは、「ブルシット・ジョブに関心を持っている人のデータ」であり、決して国単位に一般化できるものではない。

名古屋大学の上村氏によると、「自分の仕事は面白いとも役に立っているとも言えない」と考えている就業者の割合は、

日本 29.8%
ポーランド 29.0%
インド 26.6%
中国 22.4%
イギリス 11.9%
スウェーデン 9.3%
ドイツ 8.7%
アメリカ 8.6%
台湾 7.0%
フィリピン 4.4%
スイス 3.2%

という結果になっており、グレーバーは全世界で仕事のブルシット化が進んでいると述べたのに対して大きく異なっている。一方で、私たちの住む日本ではかなりブルシット化が進んでいることを示している。

2, 職業別1ポンドあたりの社会的価値の創造と破壊における計算に再現性がない

このトピックはとても興味深い一方で、計算の手順が明確でないほか、一貫した定義によって計算がなされていない。この点について詳しく述べられているnoteを発見した。勝手ながらリンクを貼るので気になった方はそちらをご覧いただきたい。

3, 社会的意味があるかどうかを判断することが困難である

マット・リドレーの『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』には「分業」の歴史こそ、人類社会発展の歴史であると述べられている。

狩猟・火おこし・衣服の作成・住居の作成と維持・武器の作成、これらをすべて1人で行うと1日がそれだけで終わってしまうどころか、何日もかかって飢えや寒さで死んでしまう(ゼロからの火おこしはめちゃくちゃ大変!)。しかし狩猟する人・火おこしする人・服を作り修繕する人・大工・武器屋それぞれが専門的に仕事をし、その仕事の余剰分を互いにサービスとして交換することで、衣食住を1日掛からずに達成することができる。

現在私たちが、鶏を屠ったり、畑に種を蒔いて育てたり、火おこししたり、などをすることなく、お金を払うだけですぐにサラダチキンやおにぎりにありつけるのはまさに「分業」のおかげであると言ってよい。原始的な文化だけでなく芸術や思索の発展も、まさに衣食住のために奔走しなくて済むようになったことの賜物だ。

しかし現代ではこうした分業の専門が細分化されすぎて自身の仕事が一体どこへ終着しているのかよくわからなくなってしまった(リドレー)。

宇宙探索のロケットを作るための部品を作る人、
の作業服の繊維を研究する人、
が頻繁に食べる野菜を作る人、
が好きな歌を作るアーティスト、
が愛用するギターのデザインを考える人、、、

という具合にどの仕事がどのように関わっているかは、脳のシナプスの連携のように人間の理解を超えてしまっている。主観的に意味がないと思っていることと、客観的な事実には当然ズレが生じる。確かに多くの仕事は無くなったとしても代替することが可能だが、一概に主観のみで無意味と述べてしまうのはあまりに荒っぽい。

ブルシット・ジョブの定義は、定義内に「被雇用者でさえ」と主観を入れることによってこの議論を避けているように思える。しかし一方でグレーバーはブルシット・ジョブがある程度客観的であるとも述べている(酒井)。確かに1つ目の批判に出てきたように、日本では3割ほどの就労者が自身の仕事を面白いとも意味があるとも思っていないという結果が出ている。加えて世界各国でこれほどまでに反響を起こした点においても、「ブルシット・ジョブ」の妥当性を認めてもよいだろう。

しかしながら、この点においてもう少し丁寧な議論を重ねるべきだと感じざるを得ない。

4, 不必要に「ブルシット・ジョブ」を増殖させている(上村)

先ほどの議論とほぼ同じだが、被雇用者自身は無意味と感じていても、需要の多様化も踏まえると実際には誰かの役に立っている可能性は十分ある。本当は世のため、人のためになっていたとしても、「ブルシット・ジョブ」を読んだことで「自分はなんでこんなにも無駄なことをしているのだろうか」と早計に判断してしまうということだ。

本稿の本当の目的

私がこのnoteを書く意欲と意義はまさに4つ目の批判にある。

『ブルシット・ジョブ』だけではもったいない!

ということをお伝えしたい。自分の仕事を「ブルシット」だと認識するだけにとどまってしまっては、ないモチベーションを僅かにでも見出そうとしていた気持ちが再起不能なまでにオーバーキルされてしまう。

『ブルシット・ジョブ』の意義とは、

「ベーシックインカムの導入でみんなが働かなくなったとしても社会は崩壊しない」

という説を支えることだと私は考える。むしろ皆が働かなくなれば、社会が健康的に機能するようになるだろう。〈ベーシックインカム編〉ではこの点について詳しく記述する。

「みんなが働かなくなったら社会が終わる!!」と唱えることは、ケインズの予言で見た通り、知らず知らずのうちに資本家の立場を擁護することにつながってしまう。

  • 大手アパレル企業が戦略的に過剰生産した服

  • ゼネコンが作りすぎた空き家

  • コンビニの廃棄する食べ物

これらに目を向けた時、あなたが労働を辞めた途端に突然飢えて、寒さに凍えて死ぬなんてことは、あまりに不自然なのだ。それにもかかわらず私たちは衣食住のために、精神をすり減らしながら、わけのわからない仕事にあくせくしている。

しかし〈ベーシックインカム編〉を読んでいただければ、この不壊金剛に思われる社会構造を変革することは想像よりもはるかに実現可能であることを理解いただけるだろう。

続く...


参考文献〈ブルシット・ジョブ編〉

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