2020年最も心に残った映画『泣く子はいねぇが』を振り返る
自粛期間の有り余る時間の中で多くの映画を観た2020年。その中で僕が最も心に残ったのが『泣く子はいねぇが』だった。最近Netflixでの配信が開始されていたので、再び観た。僕のような素人が映画を評価するつもりはさらさらないが、「面白い」や「素晴らしい」といった言葉よりは、「心に残った」という言葉をこの作品への賞賛として表現したい。このnoteではその言葉を紐解くと共に、愛すべきこの作品を振り返ってみようと思う。
演出について
演出に一貫してこだわりが見えたのは「間」である。シーンそれぞれにあまりカットが入らず、リアルな時間の流れが演出されているように感じた。「リアルな」というのは、人と人の間に流れる独特の時間の流れであり、その特定の人物同士でしか出せない間合いといったものであろうか。この作品では登場人物同士のその特別な間が尊重されていたと感じる。これが顕著に現れていたのは、やはりたすく(仲野太賀)と琴音(吉岡里帆)が海辺の車内で話すシーンである。二人の華やかだったかもしれない頃の日々は作中で描かれていないが、それらをほんのりと観客に想像させつつも、二人ともそれぞれの覚悟を持ってその時間を共有しているというどことなく気まずさが漂う雰囲気。このシーンは観ているだけで観客側にも車内のその緊張感が伝わってくる。二人の会話の微妙な息遣い、間合いがとても繊細で、第三者の干渉があろうことなら簡単に壊れてしまいそうだ。本題に入ることを躊躇しつつ、慎重に言葉を選びながら静かにぶつかり合う二人の、冷たい空間を体験した。もちろんこのシーンだけではなく、たすくと志波(寛一郎)、たすくと悠馬(山中崇)、琴音とせつ子(余貴美子)など、挙げていってはキリがないが、人物同士の特有の空気感を尊重した演出によって作品世界に没入させられ、登場人物の心情が顕微鏡を覗くように詳細に伝わってきたのではないだろうか。
個人的に好きなシーン
東京のたすくの自宅でのシーン
たすくのフットサルチームの女の子(古川琴音)が飲み会で泥酔した翌日たすくの自宅で目を覚ますシーンである。空気感がリアルで面白い。女の子がたすくの注意を引くためにテレビを消そうとリモコンを取るときのセリフ「あ、実家とおんなじだー」「えーい」とか。その間とか。迫る女の子に対して「ちょ娘いる!俺!離婚してるけど」と言って立ち上がるたすくが動揺してクイックルワイパーで床を拭く滑稽さも。その情けない表情も。特にこのシーンを意味付けているのが、女の子がたすくに投げかける「シロクマ効果」の話だ。「シロクマのことは絶対に考えないでくださいね〜」そんなことを言われたら逆にシロクマのことを考えてしまう。「そういうことです」と言って出ていく女の子。「元妻と娘のことを忘れようとするほど忘れられないんですよ」と言っているようだ。たすくは「え、どういう?」と理解が追いついていない様子だが、観客も然り。このセリフはボディブローのように後から効いてくる。そして次の志波が東京のたすくに会いにくるシーンに繋がるのである。たすくが故郷に帰るきっかけとなるシーンだ。
たすくが凪の発表会を見に行くシーン
たすくはこのシーンに至るまで、まだ凪の父親に立ち戻ることを心底諦めていなかったと思う。周りはそんなたすくを呆れた目で見ていたが(観客も然り)、愚かなたすくはそこまではあくまで父親としての意地を持っていたのだ。その意地がこのシーンで揺らぐ。たすくは保育園の子供たちの歌の発表会を見に来ている保護者の中に琴音と再婚相手(板橋駿谷)を発見する。二人の仲睦まじそうな様子にまず1ショック。だがそれを見てこの子供たちの中に凪がいることを確信する。しかし、凪が生まれてすぐに東京に逃げてしまったたすくには、どの子が凪なのかわからなかった。この中に自分の娘がいる。それなのに、どれが娘かわからない。そのたすくの表情がやや長めのカットで撮られており、たすくが「父親失格」を自分で認めざるを得ない心情が痛々しく伝わってきた。
ラストシーン
最後にたすくがなまはげに扮する目的は凪に会いにいくため、そして「父親としての意地」を果たすためだろうか。少し話が脱線するが、たすくがラストシーンで被るなまはげの面はたすくの父親が作ったものだ。たすくの兄悠馬はその面を「捨てちまえ」と言うシーンがあったように、なまはげという文化はたすくたち家族を決して幸せにするものではなかったように思える。悠馬は父親の後を継ぐために自由を縛られ、たすくはなまはげによって自らの家庭を崩壊させた。父親の残したなまはげの面を被るのはたすくの最後の父親としての意地だ。冒頭に夏井(柳葉敏郎)の言葉で「なまはげはただ子どもを泣かせるのではなく、なまはげから子どもを守る家族の絆を深めるための文化だ」ということが語られる。たすくはなまはげに扮し、琴音に対面するが、そこではあくまで「なまはげ」として琴音に向かい合う。人間の言葉で「ここを通してくれ」とは言わず、「うおおおおおおおおお!!!!!」と呻き声をあげる。たすくは凪の父親にはなれなかった。でも「なまはげ」として、凪の父親としての意地を果たそうとするのだ。部屋に上がり込むと、親族たちは「なまはげが来た」としか思っていない。たすくというアイデンティティは殺され、なまはげとして、たすくは自分の娘に向かい合う。泣き喚く凪を抱くのはもちろん琴音の再婚相手である。なまはげをやることが初めてたすくにとって意味のある行為となる。今後もたすくという人物は凪の前に現れることはできない。だから、たすくはなまはげになるしか道はなかった。タイトルにもなっている「泣く子はいねぇが」という最後のセリフはあまりにも皮肉で重みがある。
まとめ
映像を通して、観客に人物の感情を詳細に感じさせる演出が特徴的な作品だと個人的に思った。引き込まれた。台詞回しもユニークで、観ていて飽きない。佐藤快磨監督がお若い世代の方だからだろうか、この作品の趣味趣向?が20代の自分に合っている気がした。数ある邦画の中でも「この映画だけ、なんか違う」と思えるようなオリジナリティのある作品だと思った。