カイ説 般若心経 5


梵:iha Śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyatāiva rūpam.
  rūpān na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ.
  yad rūpaṃ sā śūnyatā, yā śūnyatā tad rūpam.
漢:舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
日:弟子よ、肉体は《空》に異ならず、《空》は肉体に異ならない。
  肉体は《空》であり、《空》は肉体である。


 《舎利子》は《釈迦》の弟子の名前である。般若心経に限らず、経典は《釈迦》が弟子や大衆に教えを説いて聴かせる、というスタイルで記述される。本来仏教経典は《釈迦》の言葉の記録であるとすることで「これは私が勝手に言ってることではなく、お釈迦さまのお言葉ですよ。」と教えに権威と信憑性を持たせるためである。

 仏教の教えは《釈迦》の方針で、当初は書物として記録することが禁じられていた。《釈迦》亡きあと、弟子たちは《釈迦》の言行を伝えるために詩の形で暗記して師から弟子へ伝えていた。しかし、伝言ゲームで伝えていくうちに人によって内容に差異が生じ解釈に差が出るようになってしまった。そのため、必要に迫られて《釈迦》の言行を文字として残すようになったのである。ただ、それを続けていても仏教哲学の進化とともに生前の《釈迦》の言葉だけでは足らなくなり、この般若心経のように創作されるものが出てくるのである。

 このような背景から般若心経は《釈迦》が《舎利子》に《般若波羅蜜多》の核心を説法するという体で書かれているのだが、今回の現代語訳では普遍性を持たせるために「弟子」と訳した。

 さて、本節の本題は五蘊の「肉体」と《空》がイコールであることを示すことである。「肉体」が《空》そのものであると示し、《空》が「肉体」そのものであると示すことで、《空》が「肉体」と同一不可分のものであることを示し、只の現象として物理的に存在しているものであることを示すのである。

 《空即是色》の句の存在意義を軽視する向きもあるが、《空即是色》の句があることで《空》が「肉体」に対する単なる「否定」ではなく、消えない現象としての「肉体」があることを受け入れた上で、「肉体」という重荷から解放された自由で穏やかな有り様を手にいれることができることを示唆しているのである。

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