沽券と正義のありか:空飛ぶタイヤ
2018年の作品と、思いのほか前の作品だった空飛ぶタイヤ。
池井戸潤の作品は読んだことはないし、映像化した作品も見たことがあるのは「七つの会議」くらいだった。
確かCMやポスターを目にしていた時、「空飛ぶタイヤ」というのは何かの比喩だと思っていた。
キャスティングがなかなかに豪華だなとか、タイトルは一体どういう意味なんだろうと、当時思ったことは覚えていた。
そして冒頭10分で「空飛ぶタイヤ」がそのままの意味だったことを知り、大いに面食らった。
鑑賞後に調べて知ったことだが、この話は事実を基にしている。
ベースとなったのは2000年に発覚した三菱自動車のリコール隠し。
当時10歳前後だったため、「空飛ぶタイヤ」のニュースは覚えていない。
それでも三菱自動車が大変なことになっているというのは、当時、ちょうど三菱の自動車からマツダへ買い替えたタイミングだったので、食卓でも少し話題に上っていたから覚えていた。
空飛ぶタイヤを装着したトラックを使用していたのは赤松運送。
そしてそのトラックを販売しているのは財閥系大手企業のホープ社。
物語の主軸となっていたのは赤松運送の若き社長だった。
事故原因の検証結果に納得のいかない赤松社長はホープ社の販売部への説明を求め、何度も電話を入れたり足を運ぶ。
その合間に、事故被害者の遺族へ頭を下げに行くも、憎悪の眼差しを向けられる。
そうこうしているうちに、販売部の課長が「T会議」なるものの存在を知り、自社内でまずい事が起こっているではと疑い始める。
とにかく始終どうしようもない状況が続き、やりきれない思いが募る場面が多かった。
進退窮まる赤松運送。大企業の中で不正を知りつつもうまく立ち回ろうとしてうまくいかない販売部の課長。
七つの会議でもそうだったけれど、大企業が絡んでくると、誰しもが立ち回ろうとすればするほど、首をぎちぎちと締め上げられていってしまう。
赤松運送は初め、社員を守ろうと、社長が一所懸命に奔走していた。
けれど、被害者の葬式で、子供から渡された1枚の小さな冊子に書かれた母を偲ぶ思いを読み、ホープ社が欠陥品を世に送り出している事実を白日のもとへ引っ張り出す決意をする。
専務には「社員を守る事をやめたんだ」と非難されている描写があったけれど、そうではないのではないか、と観ていて思った。
泣き寝入りして、会社運営の軌道を戻し、社員が路頭に迷わないようにすることは、社長として大事な事であり、社員を守るという沽券にも関わってくることでもある。
けれどその沽券を守り、その社員も含む人々の命を守る正義を捨ててしまっては、より最悪な未来しか描けなかったのではなかったろうか。
リコールがなければ、問題の車両は製造、販売され、公道を何食わぬ顔で走行する。
物語の後半で出てきた富山の会社の人間が言っていた通り、「走る凶器」にしかならない。
その凶器は、またいつか、誰かの大事な人をこの世からいなくならせてしまうかもしれない。
経営不振も、職をなくして路頭に迷う事も、不幸でしかないし、出来る事ならば被りたくないものではある。
けれど、その不幸と、人ひとりの命がこの世からなくなってしまうことは比べられない次元の問題になる。
究極論かもしれないけれど、「不幸だ」と嘆くことができるのは生きているからだからだ。
物語の後半、営業部の課長は人の死を情報としてしか受け取っていなかったと言っていた。
それはきっと大半の人間がそうだと思う。
それでも人は、ふとした瞬間に「死」というものを悟り、「人が死ぬ」ということに触れる。
その時そこには恐らく、個人が抱くプライドなどは押しのけられ、正義への渇望が台頭してくるのだと思う。
終盤、刑事の高幡が「プライドは捨てたんで」と言っていたのが全てだった気がしてならないのだ。
あくまでエンターテイメントの域を出ない映画では、物語は苦しいながらも美しくまとまっていた。
そして何より、林民夫氏が脚本を手掛けていただけあり、個人的にはストーリーラインも台詞も凄く良かった。
だからこそ、恐らく等身大の人間像が描かれ、映画では収められなかった細部が書かれているであろう書籍の方を読みたくなったのだ。
男は沽券、女は意地なのだなと、ふと思った作品だった。
おしまい