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Episode 083 「冷や汗と緊張感しか無かった学生時代のバイトや手伝い(上)」

記憶する限りでは、ハイスクール時代に唯一行ったバイトはチャイナタウンのフードコートにおけるテイクアウトのお寿司スタンド(そう、Mr. Leeという中国人男性に私の父親が売却したお店だ)のみだった。やることと言えば、レジ打ちのみ。そんなバイトだった。しかし、17、8歳だった私にとって、決して悪くないバイトであった。時は、2001年または2002年。当時の時給で15ドル(日本円で約1200円)ほどだった。

そうそう、このお店。20数年前、ここにバカみたいな顔してレジ打ちをしていた。
少なくとも、2018年に久しぶりにアデレードを訪れた際には、まだこのお店はあった。

その後大学に入学し、時間を見つけてはバイトを(他の場所で)続けた。具体的にはSUSHI TRAINという、飲食関連のバイトである。この(SUSHI TRAINという回転寿司屋さん)お店はオーストラリアにて全国展開をしていたチェーン店であった。これらの店舗は、私がバイトを始めた時点では(おそらく、2002年~2003年ごろ)デレードに二つ程存在していた。もう20数年前か・・・。

この二つの店舗にて使用するシャリ(お米)及び、お惣菜等をセントラルキッチン(つまり、中心となる工場)と呼ばれる場所にて準備を行い、(街中にある2つの店舗に)宅配する、というバイトをしていた。バイトと言っても、平日は朝から夕方までみっちり大学にて講義等があった為、週末しか出来なかったが開始時間は非常に早かった。

アデレードの中心部のチャイナタウンが位置するGouger Streetの店舗。
こちらもアデレードの中心部のPulteney Streetに位置する店舗。

全て(シャリ(お米)、お惣菜など)を準備して、これら二つの店舗に午前9時だか9時半には配達を終えていないとならなかったと記憶するので、セントラルキッチンでの開始時間は、午前5時ごろであったはずだ。

具体的な作業としては3つあり、一つ目はシャリを作ること。二つ目は、揚げ物を作ること。そして三つ目は冷凍食品及びおろした魚を発泡スチロールの箱に詰めること。これら三つを行い、全てを(ハイエースの様な)バンに積み二つの店舗に向かう。

そうそう、ちょうどこんな具合のバン

店舗に着くなり、台車を用いてこれら荷物を店舗内へと運ぶのである。チャイナタウンに位置する店舗に関しては、時間にもよるが、まだ従業員が出社していない事が多く、従って鍵を使い、(お店の)中に入る必要があった。

もう一店舗に関しては、(先ずは)こちらチャイナタウンの店舗に(配達に)行った後に寄る事になるので、時間的にも少し遅く、私が配達をする頃には従業員の方々が既に作業を始められていた。

ちなみに、このバン(車)、荷物を運ぶ事を専門とした車であった為、本来ガラスがあるべき部分(車の横の部分及び後ろの部分)にガラスが無かった。従って、非常に視界が悪かった。まるでレンズの部分の75%がガムテープで覆われているメガネを掛けているかの様な気分だ。

併せて、普段運転している車(セダンの乗用車サイズ)よりも車全体のサイズが非常に大きいこともあり、狭い場所などでの駐車には一苦労した。チャイナタウンにある店舗に関しては、お店の目の前(道路に面したお店であった)に車を(縦列駐車をする形で)停め、荷物を降ろすぶんには問題なかったのだが、たまに、お店の前に(他の車が駐車してある事から)スペースが空いていな場合においては、お店から数十メートル離れた(数台車が駐車できるスペース)場所に行かなくてはならかった。

もちろん、このスペース(お店の前)に車を停めている人達も理由があって停めていたのだろうが、当時は内心、「なんでココに停めるんだ!!」と一人で腹を立てていた。この際(つまり、離れた場所に車を停めないとならない場合)、不便な事が二つ生じた。

一つ目は、もちろん、お店から遠ざかるという事で、台車に乗せてシャリなどを運ぶ際に時間が掛かる(そして、台車から荷物が落ちないように、慎重に運ばなければならないので、神経を集中させる必要があった)事と、もう一つは、その車を止めるスペースの狭さが齎す、駐車の難易度が尋常ではないくらい高い事、であった。

幸いな事に、この様な事になることはなかった。

先に述べたように、この車は非常に視界が悪く、また慣れていない大きさの車であった為、毎回冷や汗をかきながら必死に駐車した憶えがある。まるで目隠しをしたまま(そう、迷路そのものだけで充分難しいのに)迷路を彷徨う様な難易度がそこにはあった。

或いはこれくらいの運転技術が求められていたのかも。

尚、この配達に掛かる時間(運転している時間)は往復分で約40~50分くらいであったと記憶するが、この間、自分で作ったミックステープを聴くのが楽しみだった。CDではなく、テープである。たまたまその車はCDプレーヤーが搭載されていなかったので、自分の部屋のコンポ(ステレオ)でCDから録音する形で自分のオリジナルミックステープを作った。この作業がすごく好きだったのを鮮明に憶えている。運転をしながら自分が好きな音楽を聴く、という行為は(仕事であれ)悪くない、と感じていた。

ミックステープを聴きながら

運転中、様々な曲を聴いた。それこそメロコア(Hi-Standard、Blink 182、Millencolin、NOFX、Pennywise、No Fun At Allなどなど)が中心となったが、やはり天才奥田民生を聴く頻度は控えめに言っても高かった。20年以上が経った今でも思い出すのは、スピッツの隠れ名曲「うめぼし」を日本一ロックな男の一人、奥田民生がカバーするバージョンを聴きながら、オーストラリアはアデレードの真っ直ぐな道を走り抜けた。当時(2000年代初頭)のオーストラリアの人口は、おそらく2000万人弱。言い切れるのは、この約2000万人の中で、当時私以外の誰もこの曲をオーストラリアの道路で聴いていた者は居なかったであろうと言う事。他にも、天才奥田民生の曲「野ばら」、「恋のかけら」、「さすらい」、「イージューライダー」などなどが、このバンに鳴り響いていた。

配達の際、各店舗にシャリやお惣菜、冷凍品及び魚が入っている発泡スチロールを置いてくる代わりに、前日のシャリボックス(約30リットル程度の箱)を6、7個持って帰ってくるのだ。

セントラルキッチンに戻って来るなり、先ずこれらのシャリボックスを洗う作業を行う。その後、シャリマシーンなどの重機を水洗いし、そして床の水掃除を(デッキブラシなどを用いて)行う。それが終わると次は別のスペースの掃除を行う。

そうそう、正にこんな感じのボックスだった
こんな感じの(または、もう少し大きかった様に記憶する)シャリマシーンだった。

過去のバイトを振り返ると、この様に、掃除ばかりをしていた気がする。父親は、アデレードにて幾つかのレストランやお店を開業した。もちろん14、5歳の時から諸々と手伝いをさせられたが、なにせ特に掃除が多かった様に記憶する。

掃除。掃除。掃除。

レストランの他に、デベロッパーとしても仕事をしていた父親は、①土地を買い、②そこに家を建て、③外溝の工事を自ら行い、④数年そこに住み、⑤マージンを乗せた形で売却する、という、オーストラリアならではのビジネスを行っていた。

日本とは違いオーストラリアという国は常に(我々が住み始めた当時(1996年)から)外国からオーストラリアに移住を希望する人たちが多く、人気の国であった。とは言え、やはり日本人はほぼいなかった。少なくともアデレードには、ほとんどいなかった。

尚、上記①の後に先ず行うことがある。つまり、購入したばかりの土地は(場所にもよるが)草も生え放題である。従って、大工さんが家を建てられる状態ではない、という事だったので、その土地をきれいにする、というプロセスが必要とされた。

つまり、その土地を綺麗にするという作業が必要になり、それは私が担当する事になっていた。尚、その作業を私がやらないという選択肢は存在しなかった。この、草などが生え時放題の土地における、高さ1メートルを超える草を全て刈る作業には(控えめに言っても)そこそこの時間と体力を要した。

電動芝刈り機(そう、一度死にそうになったあの電動芝刈り機である(Episode参照013参照))に併せ、壁際やフェンス際の淵の草をカットするためのエンジン付きの草刈機などの機械(重機)をパジェロに繋げた牽引車に積み、これら現場に通い詰めた。

土地の広さにもよるが、なんせオーストラリアの土地は広く、それぞれの土地(父親が購入した内の土地)は、少なくとも(少なく見積もったとしても)2~300坪はあったと思われる。

この様な牽引車をパジェロの後ろに繋げ、様々な重機を乗せ、購入した土地の草や切り株などを処理していた。今から考えると、大学生がやる仕事の領域を遥かに超越していた。控えめに言っても「手伝い」なんていう次元のそれでは無かった。重労働は冷や汗と緊張感しかなった。

電動芝刈り機、及び電動草刈り機に併せ、鶴嘴(つるはし)やその類の工具も一緒に引率車に積み込み、大きな草の根や切り株などを掘り起こすという作業も行った。

電動芝刈り機は、こんな感じのものだった。
電動草刈機はこう言った類のもの。臨機応変にアタッチメントを交換し、適切に草を刈っていく。
鶴橋(つるはし)はこう言ったもの。腹が立つくらい、重いのである。

今振り返ってみても、相当な重労働な作業であった。我ながらに、よくもそこまでの体力的重労働をやったもんだなぁ、と感じる。きっと、これらの道具や機械などを積み込み、作業をするその姿はそこそこ経験を積んだ大人に負けていなかったと思われる。まるで、ハイスクールを卒業したばかり18歳の少年でありながら、他のプロに混じってNBAでプレーしている青年の様に。

Episode 084に続く・・・


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