Episode 092 「ビジネスごっこ (下)」
以下、Episode 091の続き。
尚、日本語を教え始めて、それまで自分でも気づかなかった点や、誰かから質問を受けて初めて考える、という様な事が多く発生した。また、日本語の言語だけでなく、日本についても多く質問されたが答えられない事もたくさんあった。
例えば、日本の日の丸の国旗の赤い部分は太陽だが、白い部分は何を意味しているのか、など。ちなみに、白い部分は神聖及び純潔を意味し、また日の丸の赤(正しくは紅色、だそうです)と白で、紅白、つまり、おめでたい色、を表現してるとのこと。
また、ネット上での情報なので信憑性は全く不明だが、興味深い話を見つけたのでシェアしたい。その昔明治時代(1868年~1912年)、イギリス、フランス、オランダから正式に日本の日の丸の国旗を500万円(現在の200億円・・・との事だが、この数字の算出方法(換算方法)は信じ難い)で売って欲しいとの依頼があったとか。その洗練された日の丸のデザインに興味を抱いたとの事。
当時の明治政府としては喉から手が出るほど欲しい金額ではあったものの、国旗を売り渡すという行為はそれ即ち国家を売り渡すに等しいと感じ、この申し出を断ったとのことである。繰り返すが、この話の信憑性は不明確である。しかし、もし、事実であるのであれば面白い話である。
他にも、日本語を学びたいと連絡をくれた人々の中に、初期のパンクの音楽(クラッシュ、セックスピストルズ、ランシドなどのバンド)が好きという事がその格好から明確に分かる様なファッションスタイルのカップルであったり、大学仲間三人組(ルーカス(マレーシア人)、キキ(香港人)、チョーイー(マレーシア人))であったりと、様々な人達に対し日本語を教える事になった。
尚、この家庭教師というバイトをしていく中で具体的に感じたことが幾つかある。例えば、(自らが)普段は気にすることなく使っていた(日本語においての)言い回しの裏に存在する規則性、など。
そんな中、特に興味を持ったのは言語が及ぼす、実生活への影響力(例えば、仕草、動作、または行動など)である。これはつまりどういうことかというと、使う言語により思考回路にも変化が見られるのではないか、という事である。
とあるオーストラリア人の生徒は、日本語で喋り出した途端に性格や仕草まで日本人風になる。通常、オーストラリアの習慣では、日本ではお馴染みのおじぎや会釈、は存在しない。しかしながら、この生徒は、日本語の単語またはフレーズ、例えば、相手の発言に対して同意する形で「そうですよね~」と発する際、日本人の如く、コクリと頷く形で、頭を軽く上下に数回振り、会釈をする形になる。
因みに、私自身も周りから言われる時がたまにある。日本語で話している時と英語で話している時の雰囲気に大きな違いがある、とのことらしい。
自分では意識しているつもりはないのだが、やはりそこには違いがあるらしい。尚、英語で喋っている時の方が、声が低くなり、ハッキリとした話し方になり(即ち、口調がきつくなる)、日本語を話している時に比べ、マイルドさがなくなる、とのことらしいが、自分では全く違いがわからないのだが。
他にも、(周りから指摘される自分の癖の一つとして)しゃべっている際に、手が活発に動いている(エレファントカシマシの宮本浩次の様に、とまでは言わないが)、という意見および指摘も頻繁に受ける。
確かに、無意識で行っていたのだが、意識してみると、喋る際には私の両手は大きく動いていることが多い。まるで、突然舌を抜かれて、全く言葉を発することができなくなり、その旨を手だけで表現(相手に伝えようと)しようとしている人みたいに。または、水中で、(声の代わりに)手を使って何かを伝えようとしているかの様に。まぁ、そこまで大げさではないと思うが。
言語関連でいうと、一つ、個人的に心がけている事がある。自分が英語を覚えていく過程で学んだ点の一つとして、現在でも実施している一つに、何かを説明する際には「余計な部分・要素を排除する」というやり方がある。
つまり、英語を習い始めて間も無い時は、自分が伝えたい内容を英語で伝えるという作業が非常に難易度の高い作業であった。どう足掻いても、自分の頭に無い語彙は言葉になって口から出てくるわけがなく、また、自分の頭に無い言い回しの方法で喋ることは当然できなかった。
従って、限られた語彙の中コミュニケーションを図る、というやり方以外は方法として存在しなかったのだ。ただ、見方を変えれば、限られた語彙であっても意思疎通が全くできないという事はないという事を身を持って体験した。とは言え、Episode007にて触れた様に、明らかにボディーランゲージの限界は、あるのだが。
どんな言語でも(私は英語と日本語しか喋れないが)、語彙の増加と共に、時として不要な言い回しなどが発生する場合もある、そう私は考える。もちろん、語彙が多ければ、自分の頭の中にある内容を適切な言葉を使い表現できるという利点はもちろんあるのだが、時に、余計な言い回しをし過ぎるが故、伝えたい本質の部分が不明確になるという状況も生まれてくる。
まるで、調味料を入れすぎて本来の食材の良さや美味しさが全く分からなくなってしまった料理の様に。または、言いたい事がありすぎて、結局まとまりのない話になってしまうエレファントカシマシの宮本浩次の様に。
もちろん、シンプル過ぎる表現故、伝えたい内容が伝わらないという状態は論外であるが(そう、アインシュタインが唱える「Everything should be made as simple as possible, but not simpler」(全てのものは、シンプル(無駄がない状態)であるべきだが、極端にシンプル(重要な要素が抜けてしまう程に単純)ではならない)の様に)、余計な要素を足すという作業は常に必要なわけではない、という事を学ぶ事ができた。
つまり、足し算をすれば常に良くなるとは限らない、いかに引き算をしながら本質を捉えることができるか、が重要なのだと強く感じた。正に、Less is more(※20世紀のモダニズム建築代表する、ドイツ出身の建築家、Ludwig Mies van der Rohe(ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ)が唱えた概念である)である。
この考え方については、日々生活をする中、至る場面で取り入れているつもりである。服装然り、思考然り。正に、レオナルド・ダヴィンチの「Simplicity is the ultimate sophistication(シンプルであることは洗練の最高峰である)」である。
服装に至っても、スーツを着れば(足し算、つまり着飾る行為を指す)、それは誰でもある程度はカッコよく見えるものである。そんな中で個人的に感じるのは、いかにシンプルな格好でカッコよくいれるか、が目指すところである。いかに、Tシャツとパンツ(注意:下着ではなくPants(パンツ))でカッコよくいられるのか、に興味及び関心がある。
何故なら、(これをする事は)難易度が高い(そう、お金は使うより、稼ぐ方が圧倒的に難易度が高い様に)のは言わずもがなだが、引き算での格好良さ、またその方(引き算で物事を行うやり方)が価値があると個人的に感じるからである。
尚、引き算のコンセプトをとり入れることにより、その結果、様々な事及び場面に置いて本質的思考に変わってくる。Tシャツとパンツで勝負するということは、それ即ち、そもそもかっこよさを洋服に求める事よりも、自分の体型にフォーカスする必要があるということに気付く。では、理想の体型を追求するには具体的に何を行う必要があるのか(例:筋トレ、食事の気遣い、充分な睡眠etc)などを考え始め、従って、正に本質的な考えを持つ様な思考にシフトしてくる。
日本語を教えるバイト(ie: Tutor)は、なかなか悪くないバイトであったと今振り返っても、そう感じる。その理由としては、二つある。
一つ目は、その効率性の良さであった。平均して、一時間あたり30ドル(当時のレートで約2500円程度であっただろうか)だった。当時学生だった自分には、悪くない金額だった。
数いる生徒の中で、とあるハイスクールの姉妹に日本語を教えていた時期があった。姉のキャサヤと妹のリアである。初めはもちろん二人に日本語を教えていたのだが、その子達の母親に頼まれ数学も教えることになった。それにプラスして、楽器も何か(彼女らはピアノを既に習っていたので、それ以外の楽器)習わせたいとの相談を受け、結局ギターも教えることになった。
この相談を受けた翌週には、姉妹揃って、さっそく新品のギターを買ってもらっていた(そう、彼女らの父親は医者であり、いわゆるお金持ちの家族だった)。一時間目は日本語、二時間目には数学、そして三時間目にはギターを教え、終わる頃には夕ご飯が出てくるという、最高のバイトであった。
二つ目は、日本語を教えることにより、言語に対する興味が高まった、という点である。もちろん、日本語を教えるといっても、全ての説明は英語で行う。従って、あらゆる質問に対し、しっかりと英語で説明をする必要があった。従って、この時期をきっかけに、自分でも色々と頭で考えて喋る癖がついた。母国語を用いて喋る際には、あまり頭で考えずに、自然と(そう、歩いている時に、「よし、右足を出した後は左足、そしてまた右足をだそう」と思わないのと一緒で)言葉を発して喋っている。
そんな中、(英語を用いて)日本語の構造について説明しようとする場合においては、なぜ、ある特定な単語を用いて、特定な話し方(正しい文法に則り)をするのか、などをしっかりと頭で考えて説明する必要があった。
因みに、自分の中での結論の一つとして感じているのは、英語(他の言語につてはわからないが)という言語は、数学が得意な人であれば覚えやすく、また(より)楽しんで学べるのではないか、と考えている。
従って、文系の人だけではなく、寧ろ理系の人の方が(英語を学ぶ、という事に関しては)合っているのではないかと個人的には考える。その理由としては、英語という言語は(恐らく他の言語もそうかもしれないが、いかんせん私は日本語と英語以外喋れないので詳しくは分かりかねる)非常に構造化されており、またその規則性が(比較的)明確だからである。
つまり、数学に非常に似ていると個人的には考える。とは言いつつも、「従って、数学が得意でない人は、英語をマスターするのは難しいですね」ということが言いたいのではなく、つまり、数学の問題を解く時の様な考え方をすると、英語を覚える手助けになるのではないかと、個人的には感じている。
この様にして、塾での家庭教師とは別に、自分で生徒を集め、Tutorとしてビジネスごっこをしていた、そんな学生時代もあったとさ。
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