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「怪談に至るまで」を読んで
久しぶりにこういった気持ちになりました。
書かずにはいられない、読むほどに何かが湧き上がる。
「怪談に至るまで」を読んでの感想文です。
人に向けての文章というよりは内省を整理しているようなものであるため、読みづらい分かりづらい点はお許しください。
わたしの、怪談に至るまで
ずっと、ホラー怪談オカルトといった類のものが嫌いでした。
たまにこの件について話していますが、私は宗教に密接した環境で生まれ育ち過ごしています。その中で‘‘怪談を利用された‘‘諸々を目の当たりにしていたようです。
「ようです」と他人事なのは随分後になって理解し認識して受け入れる事が出来ているからでしょう。
真っただ中にいた時は‘‘怪異的現象‘‘に屈服するものか、とずっと反抗して大人になりました。
今回の朱雀門出先生のお話では、自分の幼少期に取り囲まれていた世界を客観視している気持ちになります。
では何故そんなアンチだった私が怪談好きに変異したのか。
それは、嫌いだった人生が過去となったからです。
覚えてくださる方がどれだけいるかは分かりませんが、初めて公で怪談を披露した最恐戦において私は自身の実体験を語りました。それが過去となったあの生活の中における話だったのです。
尊敬する高田公太先生が‘‘怪談の内側、外側‘‘と表現されているのに胸打たれ私もその言葉を使わせていただいていますが。
今私も怪談の外側に抜け出せたのでひとつのコンテンツとして楽しむまでに至れています。でもだから、怪談への好みというものがある種はっきりしているのかもしれません。
こんな事ふわっとしか書けませんが。
外側から内側をどう見ているというのは想像以上に透けています。怪談を楽しむ表現するというだけではない、何か。
それは多分、幼少期に感じていた‘‘怪異に屈服したくない‘‘その思いと似ています。ああ、もっと考えを書きたい気がするけど一応外へ公開するものなので止めておきます。
でも私が怪談を心から好きになれたのは、純粋な楽しさと面白さや学びを教えてくださる作家さん語り手さんと出会えたからでした。
きっと私と同じような人がいる中で、怪談の面白さを知ってほしいし嫌悪感を覆せる可能性があるという希望を持ちたくて私は怪談を集めて語ってこんな感想文を書いているんだと思います。
記憶の幽霊
今回の中でぶわ~~っと沸き立ちました。好きな表現だな、と。
父が逝去する少し前、内臓を取り出す手術をしていました。
数時間に及ぶ手術が終わり奥に呼ばれて親族一同で向かうと、右手側の扉から手術着を纏い目だけしか出ていない医師が現れました。
きっと手術台に乗せられた父が運ばれてくるのかと思っていたら違ったんです。
医師の手には父の身体から取り出されたどこかの内臓が板のようなものに乗せられています。
「こちらがお父さんの中から出たものです」みたいな事を言われた気がしますが、初めて見た人間の臓器にそれどころではありませんでした。
血が臓器を覆っているんでしょうが黒っぽかった。それよりも獣臭のような生臭さで頭がくらくらする。
その場には父と数年ぶりに再会する祖父もいて「久しぶりの再会が本人ではなく身体の中身って…いやでもこれはこれで本人だし」とよく分からないツッコミが脳内を駆け巡ります。
一同あ然としてまた控室に戻ったと思いますがその後のことは覚えていません。
それから程なく父は亡くなり臓器との対面の件について誰とも話すことなく時が経ちました。
十回忌が終わった後、私はこの件を家族に言います。
「あれびっくりしたよね」
しかし覚えていたのはひとりの弟だけ。
母ともうひとりの弟は「そんな事無かった」と言うのです。
もう誰にも確認のしようがない父の臓器。これは記憶の幽霊なのだろうか。
と、こんな話を思い出しました。
受け取り、考えること
みんなが怪談を聞いたり読んだ後にどんな事を感じるのかがとても気になります。私は感想文に書いてきたような誰の役にも立つことはない気持ちが湧きあがる。みんなもそういう風になるのだろうか。
別にそれが大切だとか必要というわけではありません。怖かった、面白かったで幕を下ろすのも悪くはない。いや、むしろそこで終わればすごくハッピーかもしれない。
だけど受け取って、向き合い、考える。
自分が今後怪談を語ったり書いたりしなくても、その一連の流れが怪談をあってほしい形で楽しむために作られる構造の一部になるのではないかとも思います。
こんな思いがわーーっと湧き上がるこの本に出会えてしあわせです。