【楽園の噂話】Vol.5 「マイケルベイは"トモダチ"だ」(No.0039)
果てしない予算を使った大味ハリウッド映画は長らくマイケルベイの独壇場でした。呆れるほどある意味生真面目に当てるための全ての保険をかけた超大作の数々は、確かにヒットしてきましたが好き者達の間では完全に嘲笑の対象でした。限りなく厳しい批判をこれ以上無い程に受け続けてきた彼は、「ペインアンドゲイン」を作った事で評価は一変し好事家からも真っ当に称賛されましたが、やはり彼を語るときにはどうしても半笑いの態度をしがちです。
確かにアクション映画なのに退屈になる辺り彼には素質が無いのかも知れませんが、素質の無い監督なんて星の数ほどおりますが、それらと比べられない程にマイケルベイは叩かれました。
人がコミュニケーションを取る手段は3つしか無いと思います。
気持ちと言葉と暴力です。
この順番で人は繋がっており連絡を取るのだと考えますが、しかしそもそもコミュニケーションなんて取りたくないと思う人達が誰の人生にも居るのです。
実はこのコミュニケーションの外にいる人達に対しては、人は物凄く"甘い"のです。
何故なら「関わりたくない」からです。
そんな「存在」なんて自分の人生の"枠"に入れたくないから、ジャッジすらしないのです。
社会的な言い回しですとアウトローに当たるのかも知れません。
個人のルールという"法の外"にいる者にはどんなアメを与えてでも、自分の人生から遠ざけようと行動します。
逆に親しく仲間だと思っている存在に対しては、人は物凄く厳しいです。
少しのズレで大変厳しく叱責します。
友達や恋人が自分と少しでも気持ちや価値観でズレると、人は怒りを持って相手を口汚く罵倒し人格否定も辞さないほどに批判をするのです。
何故ならその相手は自分の人生の大切な一部であり、好きだからです。
好きな存在と心がズレる事は大変苦しい為に感情的になってズレを何とか修正しようとして慌てるのです。
映画ファンたちがマイケルベイを批判してきたのも、彼が基本的には"仲間"だからです。
馬鹿な大作映画を"観る者作る者"の関係から自然と仲間意識が芽生え、なんだかんだ言ってもマイケルベイはその仲間の枠に対する敬意や意識が薄っすらでもあったからこそ手厳しく批判にあってきたのです。
同じ様なテンションで堤幸彦や今の園子温や三池崇史を批判する人はいません。
彼らは仲間では無いからです。
誰も彼らを愛していません。
だから何も言われないのですから、彼らが不当に絶賛されたり評価されたとしても、好事家達は何も言わないのです。
しかし、これではいけないと考えます。
「好きや嫌い」の判断基準は結局のところ差別に発展します。
「好き嫌い」を判断基準にせず、「正しいかどうか」を基準にすべきです。
恐ろしいのは、人は日々食べ物やタレントやサブカルチャーやアートに対して「好きや嫌い」で判断する「癖」が付けられています。
そしてその「好きや嫌い」の集合体を「個性」として認識させられ、やがてこの固まりを「人格」と受け止め固定されてしまうのです。
「好き嫌い」は過去の判断をまとめた集合体であるので、突き詰めればこれは所詮「快楽と過去の固まり」に過ぎません。
ですからこれをもってしてあなたの「人格」だと自他共に認めた時、人は過去に固定されるので成長しなくなるのです。以前に書いた通り(「想像の番人シリーズ」)呪いです。
当然ですが、間違っています。
今まで知らなかった真実に出会い受け入れる事で人は進化成長しますから、その大切な変化を奪う価値観は間違っています。
マイケルベイの「ペインアンドゲイン」は面白いですが、これに限らず観る必要はありません。
サブカルチャーによる呪いから脱出する為にも、1日も早く真実を学び正しさを得て愚かな差別の元を自分の中から捨て去って欲しいと思います。
【楽園の噂話】 Vol.5
「マイケルベイは"トモダチ"だ」
おわり