共同体を自らつくる 〜死刑囚Yから学ぶこと〜
田口ランディ氏の
「逆さに吊るされた男」(ポプラ社)を読んだ。
オウム真理教の地下鉄サリン事件死刑囚Yとの交流を描いた私小説だ。
考えたことは
世間の常識でないことかもしれない。
でも大事な視点を得た気もする。
宗教も共同体であるならば、
地域も共同体であるならば、
それは自らの手で作ればいいと。
1 死刑囚Yの人柄
死刑囚というと身近でない。
とんでもない人というイメージがあった。
ここに描かれているのは
普通の人
むしろ内省的な人だ。
まず、そのことに驚く。
さらに
悪事を働くことは薄々わかっていながら、
仲間のために抜けられなかったという。
共同体の中で嫌な役目を
死刑囚Yが担ってきて
その延長上にサリン事件がある。
皆2袋のところを
Yは3袋持たされた。
リーダー格が渡して
Yが引き受けた。
象徴的な話だ。
仲間には渡せられなかったと。
この人はそういう人だった。
むしろ、人間らしい。
私だったら・・・
そういうものなのかもしれない。
2 禅師とのやりとり
禅僧とのやりとりがまた面白い。
反省とは?
・・・忘れること。
「でも禅師、そんなことを言ったら、世間が許しませんよ」
「許さないのは、世間ではなく、あなたでしょう?」
反省について
わかりやすく人前で演技したことで
死刑を免れて
無期懲役になった人物の話題も出てくる。
反省してるかどうか
他人は分かるものではないのかもしれない。
禅師とのやりとりだから
禅問答な訳だが、
反省するしないに囚われている時点で
反省ではないという風に捉えた。
いわゆる
二元論のいい悪い・正しい正しくないでは解決しないことが多いという方もいる。
その延長上のとらえだが、
囚われないところまで行くという意味では
死刑囚Yは、反省できていたのかもしれない。
裁判で反省したかしないかをみる現状を
禅師は皮肉っているようにも見えた。
3 不条理に生きる
人間が作ったものは完璧ではない。
自然こそが完璧ではないか。
禁断の果実を得たアダムとイブの頃から
人間の社会に完璧はない。
不条理ばかりということになる。
オウム真理教も一つの共同体とすれば、
そこに縁したその人が不幸だった。
且つ
抜けられずにいたのも悪かったのかもしれない。
それでも
共同体の中で生きていくためには
悪事を犯さざるを得ず
その報いも受けた。
死刑囚Yの
一人の人間の生き様に
私は潔ささえ感じた。
現代巷間でそんなことを言ったら叩かれるだろう。
ただ、
人との縁はある意味運命。
仲間のために抜けないという消極的選択をして
それを受け入れた生き方をしている。
それしかできないのが人間なのではないか。
4 であれば、共同体を自らつくる
不幸になる共同体にいたら不幸になる。
であれば、
自分のありたい共同体を自分で作ったらいい。
幸せになる共同体を。
別に宗教に限った話ではないと思う。
身近な所からやったらいい。
そう思わされたのは
脳科学社中野信子氏がこんなことを書いている。
人間が極めて脆弱な体を持っていて、繁栄するためには武器が必要でした。…人間の脳を持っていないとなしえない共同体を作る能力です。
共同体をつくるのは、人間のできる能力なのだ。
何かできることがありそうな気がした。