「スーパーフラット」の停滞とキャラクターの凋落
文=前田翔吾(文芸表現学科3回生・Storyville所属)
浅田彰の整理(1)に従えば、村上隆にとって世界で通用する芸術とは、欧米のアート・ワールドで評価されるものだけであり、それは芸術史として蓄積された文脈を更新する知的なゲームである。その認識のもと(2)、村上は日本の文化を掘り下げ、辻惟雄が「奇想」と呼んだ日本画の系譜(3)に、金田伊功のアニメーションを筆頭とするいわゆる「オタクカルチャー」を接続して、「スーパーフラット」を提唱した。これは、過剰な要素(東浩紀の例えでは増殖した目のアイコン(4))が盛り込まれた結果、平面でありながら鑑賞者の視線が定まらず、描かれたものが動きだしてみえるような「平面に含まれていた潜在的な運動性」(5)を指摘したものだ。2000年から開始された「スーパーフラット三部作」の最終章「リトルボーイ:爆発する日本のサブカルチャー・アート」展(2005年、 ニューヨーク)は、名前にも表れているように、半世紀前に原爆を落とされ、マッカーサーに12歳の少年と揶揄された戦後の「日本のいま」(6)こそ、幼児化する「世界の未来かもしれない」(6)という文脈とともに評価され、全米批評家連盟によるベスト・キュレーション賞を獲得する。
では、その後の「スーパーフラット」の歩みはどうだっただろうか。今回の「村上隆 もののけ 京都」(会期:2024年2月3日-9月1日、京セラ美術館)は、前回の「村上隆の五百羅漢図展」(2015-16年、森美術館)以来、8年ぶりに国内で開かれた大規模個展で、両展覧会ともに日本古美術を本歌取りした作品が大部分を占める。しかし、一般に筆のストロークが重要な要素とされる日本の古美術は、記号化されたフラットな表現に適していない(7)。また、全長が100メートルあるという〈五百羅漢図〉(ドーハのAl Riwaqで2012年に一度公開された後、2015年に完成版が森美術館で展示された)にしても、今回の展覧会で最初に展示されている〈洛中洛外図 岩佐又兵衛 rip〉(2023-24)にしても、過剰なのはオリジナルから拡大されたサイズであって、確かに全体を把握するためには物理的に動かなくてはならない(8)が、四半世紀前の村上が目をつけたのは、こうした運動性のことではなかったはずだ。
一点に留まったまま鑑賞できる作品にしても、『スーパーフラット』コンセプトブック(2000年、マドラ出版)の装丁である目の集合体であれば、依然としてその効果を感じることができたが、従来通りのキャラクターや花といったモチーフの詰まった〈ライオンと村上隆〉(2023-24)になると、画面がレイヤーの積み重ね――画面下部を占める花びらの山、中央の唐獅子、周辺の降り散る花びら、左右それぞれのキャラクターの集合、の計五つ――で構成されている印象を受け、視線の移動はその階層に対応しているように感じる。その意味で、視線の運動はあるのだが、もはや「スーパーフラット」の前提であったはずの平面性は奥行きが生まれたことで失われ、通常の平面作品との違いをはっきり述べることは難しい。また、一つのレイヤーを見ている間に別のレイヤーへ視線が引っ張られることはなく、同一レイヤー内で構造が歪むことも、あるいは全体を概観したときに上記とは違ったレイアウトに気付くといったこともない。東は『スーパーフラット』内の論考で、村上の平面作品の特徴として、「それを見るための正しい視点が欠けている」ことを指摘した(9)が、この絵では、強固な一つの文法が全体を統制しているようにみえてならない。
これらの作品の鑑賞後に筆者が考えていたのは、チームラボの作品だ。チームラボ代表である猪子寿之は、自身の作品に反映されている日本的な空間把握の論理構造を「超主観空間」と呼んだ(10)。猪子によれば、それはレイヤー的であり、大和絵では鑑賞者が描かれた人物の視点になりきったとしても、両者の立場で見ているものは変わらない。これは、正面からの固定された視点に基づいて画面を構成する西洋の透視図法と、その空間認識とは全く別物だ。猪子の仮説は、この空間認識が現代の日本人にも受け継がれていて、インタラクティブなゲームの空間表現と相性が良かったのではないかというものだ。この説は、初の2D横スクロールゲーム『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂、1985)の空間表現であったり、『ドラゴンクエスト』(現:スクウェア・エニックス、1986)の世界が日本式のレイヤーで描かれることによって、プレイヤー(絵画での鑑賞者)がキャラクター(絵画における被写体)に没入しつつも、マップから客観的に位置情報を取得することを妨げない点を説明できる。また、パースペクティブを重視する西洋においては、キャラクターを画面から排除することによって、プレイヤーのみる世界の統一性を維持したFPS( 一人称視点のシューティングゲームジャンル)が発達してきたと言えるだろう。そのうえで、宇野常寛は、日本的想像力とは、猪子の言う「超主観空間」的な空間把握の論理と、依代的・キャラクター的な感情移入装置の二つからなると整理し、猪子の作品からは後者が切り落とされていると指摘する。なぜなら、猪子が現実に表現した「超主観空間」では、観客がキャラクターとして、実際にその空間のなかへ入っていくことが可能だからだ(11)。
村上の作品に戻ろう。〈ライオンと村上隆〉は、「スーパーフラット」ではなくレイヤーの積み重ねだった。しかしその構成の文法はパースペクティブに近く、鑑賞者が絵の中に身をおけるような「超主観空間」とも異なった平凡な絵という印象を拭えなかった。その敗因は、村上が独自の空間論理を組み立てることなく、キャラクターに頼りすぎた点にあるだろう。キュレーターの高橋信也に依頼された〈洛中洛外図〉の改作を、当初村上は自分のスタイルでコピーすることで果たそうとしたが、それを明確に表現することができず、しかたなく花のキャラクターを紛れ込ませたという(12)。また、〈風神図〉・〈雷神図〉(ともに2023-24)の改作では、引用元の俵屋宗達・尾形光琳とは比べものにならないほど虚弱なキャラクターとして二神を描くに留まっている。
しかし、これらのキャラクターたちは、単体では観客を没入させるほどの魅力を有していない。キャラクター文化は性的なものとの結び付きが強いが、かつて母乳・精液をハデにまき散らし、キャラクター的回路の強力さを体現していた〈HIROPON〉(1997)・〈My Lonesome Cowboy〉(1998)が、本展ではそれぞれ「アバター Style」と改称され、全身を覆うメタルスーツに、巨乳も、下腹部の膨らみも、性的なものが全て抑圧されてしまっている姿は、セクシャルなイメージを原動力とする村上のキャラクター回路が、猪子の「超主観空間」を現実のものにしたテクノロジーに完全敗北した様を無残なまでに示している。それが、村上が当初志向していたアートの文脈における、現時点の彼の評価だろう。
その他指摘するとすれば、会期前の1月にYouTubeチャンネルの開設(13)、開場2日前の「未だ制作中」ツイート(14)、会場のあちこちに貼られた(英文と併記された)作品が完成していないことへの言い訳を連ねたカードなど、ネットワークを通じて動員するエンターテイメント的性質の仕掛けがあったが、こうして集まった関係の中で生まれるのは、YouTubeの動画で繰り返し問われる「なぜ村上隆は嫌われているのか」に代表される承認の問題(15)であって、仕事に対する評価ではない。これをアイデンティティ・ポリティクス全盛の2020年代(16)に典型的な現象だと言うことはできるが、そこに何ら批評的観点が存在しないことからも、これらを表現を伴った作品と呼ぶことはできないだろう。
最後に、本展覧会における最大の達成として、村上の会社「kaikaikiki」が今年発売するNFT(Non-Fungible Token)トレーディングカードと、京都市のふるさと納税の仕組みを活用することで、公立の美術館でありながら大規模な個展を成立させたこと(17)を挙げておきたい。もともとの企画段階から、主に海外コレクターが所有する村上の既作を展示するには作品の輸送費や保険料を賄いきれないので新作の発表が決まっていたわけだが、その制作費ですら美術館側の予算に収まらないので、不足分を補うために本システムが採用された。村上によれば、その結果3億円が集まり(18)、その収益によって京都市に在住/通学する大学生以下の入場料が無料になった。かくいう筆者もその恩恵にあずかったので、今後もこの流れを汲んで、美術や文化における企画が活発化することを願っている。
(了)
脚注
1.浅田彰「村上隆なら森美術館より横浜美術館で」2016, (https://realkyoto.jp/blog/asada-akira_160129/)
2.村上は、自身が翻訳者を雇って海外へ文脈を伝えはじめた第一人者だといっており、事実『スーパーフラット』(2000)の時点で日英両文が併記されている。
村上隆『芸術起業論』幻冬舎、2007より。
3.辻惟雄『奇想の系譜』ペリカン社、1988。
4.東浩紀「スーパーフラットで思弁する」村上隆『スーパーフラット』内の論考より。
「そしてそこで最も印象的なのは、歪曲されたDOB君の表面を覆う無数の目のイメージーただし、決して写実的ではなく、デフォルメされ、アニメ化された無数の目の記号である」(p.146)。
5.浅田、前掲文。
6.村上隆「スーパーフラット宣言」『スーパーフラット』マドラ出版、2000。
「日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまはsuper flat」(p.4)。
7.浅田(2016)による指摘。
8.〈五百羅漢図〉はドーハでは二つ折り、森美術館では四つ割りと展示形式が違ったという。椹木野衣は、「カタールでの〈五百羅漢図〉は、森美術館のほとんど触覚的と言ってよい展示に比べて、はるかに絵画的に見えていた。言い換えれば、目で個別のモチーフを追い、ほかの部分へと飛び、双方を見比べてはまたもとに戻るようなめまぐるしい眼球の運動が、身体的には静止したままでも、はるかにしやすくなっていた。」(p.360)と『震美術論』(2017)のなかで述べ、故にカタールでの展示形式であれば、〈五百羅漢図〉は浅田(2016)の言う意味で「スーパーフラット」だったと主張する。しかし、「個別のモチーフ」間を視線が反復することのみが「スーパーフラット」のもたらした衝撃だっただろうか。
また、今回の〈洛中洛外図〉は通路の狭さから引きで見ることが構造的に不可能だった。
9.東、前掲文、p.146。
10.猪子寿之「日本文化と空間デザイン~超主観空間~」2013年のTEDxFukuokaにおける講演。動画:(https://www.youtube.com/watch?v=2szRkXyCxss&list=WL&index=2)。
11.宇野常寛・猪子寿之「人類の美意識を更新する」『静かなる革命へのブループリント』河出書房、2014。
12.村上隆「国宝『洛中洛外図』を現代に蘇らせる理由」2024(https://www.youtube.com/watch?v=NqZ2cl2MNJ4)。
13.https://www.youtube.com/@Takashi_Murakami。
14「2月1日午前3時現在/未だ製作中。/😅」2024年2月2日のツイッター上での発言(https://twitter.com/takashipom/status/1753185687418093680)。
15.村上隆・山田五郎「村上隆もののけ京都スペシャル対談『なぜ村上隆は日本で嫌われているのか。』」2024(https://www.youtube.com/watch?v=LLTLVdXcRnQ)。
16.浅田彰「アイデンティティ・ポリティクスを超えて――『構造と力』文庫化を機に」『新潮』2024年2月号掲載。
17.kaikaikikiによるリリース記事、2024(https://www.kaikaikiki.co.jp/importantnotification/8827/)。
18.村上隆「【前編】『村上隆 もののけ 京都』開会式はこんな感じでした」2024、(https://www.youtube.com/watch?v=ElzP6izuXMA)。
その他参考
tokyo art beat による展覧会レポート(写真付き):https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/takashi-murakami-mononoke-kyoto-report-202402
「村上隆 もののけ 京都」展公式HP:https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20240203-20240630
「村上隆の五百羅漢図展」公式HP:https://www.mori.art.museum/contents/tm500/
チームラボ公式HP:https://www.team-lab.com/
浅田彰・岡崎乾二郎・椹木野衣・村上隆「原宿フラット」『美術手帖』2001年2月号掲載。
ピクシブ・チームラボ特集『美術手帖』2011年6月号。
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