私が信じているのは自分自身です。自分を信じると書いて自信。自分の好きな推しを信じ貫く。書くために私は産まれてきたー館花琴音ー
作家じゃないのかもしれない。一発屋なのかもしれない。オタクなのかもしれない。タダの一般人でお母さんだけど、私は自分の文章が好き。自分が好き。自画自賛。親バカ。誰も愛してくれないなら自分を愛するしかないし、自分の、味方になるしか無かった。
だから、自分を好きになれた時、私には推しが出来ました。推しに嫌われることもあります。無茶苦茶なこともいわれます。何言ってるんだかわからなくなるときもございます。
それでも、私に出来ることで誠実に応えていこうと思う。それしかないからです。
縛らなくていいの、企画とか、discordとかオプチャとか。もちろん、芸能人とかファンクラブとかSpoonの企画とかHAKUNAの企画とか必要な繋がりは必要だと思う。
私は黒革の手帖の原口元子のように、誰のものにもならない。私は誰かのものにはならない。
私はただ、ただ、推しが好きだけど
単推しは、しない。
それは『本命が分かりにくい』ともいえる。本命って?だって何人も推すとどうしても優先順位が出来て、徳川将軍家の上様のように、今宵は何処の推しの枠へ行きますか?と、なりませんか?
まるで妾のように、複数の推しを推すということは、それに近いのかもしれない。例えが良くないけれど。
私が主役では無い。推しが主役です。私が通おうが通わまいが、推しは美しく、いい声を披露し、続けている。いつか本人たちのタイミングで辞めたり、休止したり、画面から消えるのかもしれない。
永遠にいるとは、私も思っていない。
でもそれは、私もそうだということです。リスナーも永遠にいれない。お互い様で
推しとリスナーは、お互いに『恋の駆け引き』のように、惚れさせ合うのかもしれない。それは恋人のそれとは、また違う。
画面越しに、会うことの無い、『君の名は』のような世界線で。画面の向こうの推しの声に恋のように恋焦がれ、誰の事を言ってるかって
その人だけに、伝わると思う。
神推しSuperは9人いて、9人みんなに言っているかもしれないし、当てはまるひとに言っているのかもしれないし、私もライバルリスナーたくさんいる。
私の神推しSuperのリスナーたちは、みんな推しを愛していて、私が調子に乗れば弾かれる。だから、通えるように、誠意をもって推し続ける9人の神推しSuperを。