ベルサイユへ行きました。⑤

行きたかないのにベルサイユ

 電車はベルサイユ宮殿・左岸駅に着いた。パリ市内の駅を五つほど飛ばしただろうか。乗車した駅から三十分もかからなかった。
「さてどうする? シャトーはーー、あ、あそこか」
 エリの視線を追うと、広々とした街道の奥に、金色の輝きを放つ壮大な宮殿が鎮座していた。少し高台になっているせいか、いかにも下々の金銀財宝を吸い上げて輝いているような印象を受ける。
「すごっ、あれじゃ革命も起きるわ」
 と呟くと、エリは「ぷっ」と吹きだし、
「ようちゃん節、懐かしい」
 と笑った。またバカにして、と苛立ちながらも、私もつい笑みを漏らす。

 動線を決めていなかったのだが、二人とも吸い寄せられるように宮殿に向かって歩き出した。大通りは歩道もゆったりと幅があり、二重に植えられた背の高いプラタナスの並木の下を歩くと、緑のアーチの中を通っているかのようだった。脇に目を遣れば石づくりの建造物が道なりに並ぶ。あれも王政時代のまま残されているのだろう。今、ここをルイ十六世とマリー・アントワネットが乗る馬車が通ってもおかしくない、そんな雰囲気が漂っていた。
「何かタイムスリップしたみたい」
 とエリが呟くので、
「うん、バック・トゥー・ザ・フューチャー」
 と返すと、エリはまた吹き出す。大きなクレセンド型の道にさしかかると、パッカパッカという蹄の音がする。一瞬、空耳かと疑ったが、私達の横を、臙脂色の乗馬服に身を包んだマドモアゼルに御された凜々しい白馬が通り過ぎ、これまた時代がかった美しい建物の中に入って行くではないか。
「ワオ。王宮厩舎だって」
 エリが入り口の立て札を読み上げる。今にも騎士団が出てきそうな雰囲気だ。思わず頬を抓りながら、
「本当にタイムスリップしたのかな」
 と今度は私が呟く。
「やだ、あの郊外電車がドック博士の車?」
 とエリは笑う。
「デロリアン」
 と答えると、エリは口笛を鳴らし、
「ようちゃん、よく覚えているね」
 と笑った。私も笑った。心なし、パリより涼しい。
「気持ちいいね」
「うん」
 二人ともそよ風に吹かれながら、しばし言葉なく歩いた。突然の再会、そしてベルサイユに流れ着き、昔のような阿吽の呼吸での会話が始まっている。だけどこの展開に、私はまだ現実味を持てない。
「どうする? 折角だから宮殿見学する?」
とエリは聞くが、待って。待って欲しい。ベルサイユに来るなんて、考えてもなかった。エリと再会するなんて、思ってもいなかったのだ。
「それか、地図観ると、宮殿の庭園にカフェがいくつかあるみたいだから、そこでお茶する?」
 エリは畳みかけるように提案する。エリのベースには付いていけない。頼むから急かさないで。返事をしない私に気づいたのか、
「ーー取りあえず散歩しながら考えよっか」
 エリはそう言って宮殿の脇の道を指さした。そこから庭園に入れるらしい。私が黙ったまま肯くと、エリは私の半歩先を行った。

 やっと庭園の縁まで来た、と思ったら、そこは大階段となっていて、下るとさらに何キロも先まで庭園が続く。この規模は何なのだ。庭園と言うより、手入れが行き届いた緑地というべきではないのだろうか。
「うわあ、大っきい!」
 エリは感嘆の声を上げる。確かにそうだが、そんな声を挙げなくてもよいだろうに。だが横を見ると、エリは天を仰いでいた。ここは庭園を臨むためのスポットだろう。相変わらずエリはズレている。
「フランスの空は大きくて、気持ちいいなぁ」
 エリはまだ上を向いていた。それで私も付き合うように空を見た。青い空。雲一つなかった。
「同じ空なのに東京と違うと思わない?」
 とエリは聞いてくるのだが、そう言われても東京の空が思い浮かばない。
「いつも空を飛んでいるのに、ようちゃんったら、可笑しい」
 とエリは笑った。笑えばいい。この3か月は、空を見る余裕などなかった。コロナ禍を受けて、サービス要領も変わり、それに適応するのに必死だった。ほんとに必死だったのだ。
 ふと、復職手続きをする際の乗務課長の表情が蘇ってきた。 課長とは同期入社だった。鬼カワと揶揄される私を「河合みたいなスパルタCAのお陰で、客室部のモラルが保たれている」と認めてくれる、数少ない同志だった。
 それなのにーー。
「戻ってくるのか」と見つめられた。あの目は、声にできない数々の言葉を語っていた。「人が余っているのは知っているよな」「若い人に譲るわけにはいかないか」「早期退職するなら今だぞ」ーー。
「ようちゃん」
「あ、ごめんごめん、ぼーっとしちゃった」
「じゃ、少し休憩しよ」
 階段を降りて大運河の脇に来ると、エリは芝生の上にペタンと座った。
「直接座って大丈夫?」
 と聞くと、
「あ、そうだった」
 と笑いながらお尻をチェックする。芝生は乾いていた。
「ジーンズだし、大丈夫」
 とエリはまた座り直してしまった。私は、ハンカチを敷いてその上に座った。そんな私をエリは笑みを浮かべ見ていた。
「ごめんね、ほんとなら今頃ドゥマゴでカフェオレ飲んでいるはずだった」
 とエリは謝った。
「別にいいよ。水持ってるし」
 と、ウォーターボトルに口をつける。飲み始めると止まらず、顎を上げてゴクゴク飲む。まるで青い空を飲んでいるようだった。
「それにドゥマゴは羽村君と出会った場所ですからね。こうして行けなかったというのも何かを暗示しているんだと思う」
 言うつもりはなかったのに、言葉が勝手に流れ出た。
「あ、ーーごめん」
 とエリは呟いて口を噤んだ。やはりそのことを忘れていたようだ。

 羽村次郎はエリの義理の弟にあたる。当時はエリは結婚前だったから、「将来の義弟」と言うべきか。あの頃、ジローは経産省からパリ近郊にあるビジネス・スクールに留学していた。エリはジローから、「CAさん紹介してよ」と頼まれていたが、当時エリは米国班だったのでパリ便に縁がなかった。将来の義弟にいい顔したいエリは、欧州班だった私に、
「お願い、ようちゃん幹事やって」
と頼んできたのだ。
 冷たい雨が降る晩秋の夜、CA側は、私と同期と後輩の三人。ジローは日本人の留学仲間二人を引き連れ、ドゥマゴで会った。出来る人というのは話も面白い。思いがけず楽しい夕べを過ごし、私も頼まれ幹事としてのお役目を果たせた、とほっとした。
 たまたま、その年は頻繁にパリ便に就いた。その度にジローと会うようになった。待ち合わせ場所はいつもドゥマゴ。付き合っているというのとは違った。ジローは、日本に好きな人がいるのだが「相手が既婚者なんだ」と憂っていた。そんなジローを慰めたりしているうちに、気づくと一夜を共にするようになっていた。
 ジローとのことは、エリにも明かさなかった。だがそのうち勘づかれた。
「ようちゃん、ジロちゃんは悪い人じゃないけれど、ようちゃんには手に負えないと思う」
 と忠告された。言われなくともそんなことは分かっていた。鎌倉のエリート家系の若いお役人が、資産も何もない田舎の教員の娘である私と真面目に付き合うはずがない。都合のいい女、ということなのだろう。
 案の定、ジローは留学を終え帰国すると、連絡をくれなくなった。日本では激務が待っている、と、前から会えないことを匂わされていたので、私からも連絡はしなかった。

「いいのよ、そんなこと。もう遠い昔のこと」
 と、苦笑いを浮かべながら、本当にそう思っている自分に小さく驚いた。当時は自分の行動を心底嫌悪し、苦しんだ。不思議とジローに対しては恨みがなかった。ただ、何故エリは私にジローを紹介したのだろう、と消化出来ないものが残った。でも、もうどうでもいい。あれから色々なことがあった。中でも去年はきつかった。気が狂うかと思った。それを経た今、ジローとの別れなど些末なこととしか思えない。すると、
「ようちゃん、ご家族はご健在なの?」
 エリは私の心の中を見透かしているかのように聞いてくる。
「ううん。去年一年、介護休職したんだ、だから社内規定でーー」
 と、復職して間もないから、未だチーフ・パーサーに戻れず、だから昨日も平だったことを説明した。そこのところはしっかり分かって貰いたかったのだ。だがエリは、
「介護休職? お母様? それともお父様?」
 とそっちにしか関心を示さなかった。
「ん? 両方。ダブル介護ってやつ」

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