ベルサイユへ行きました。②
会いたくない!
暗闇の中、目が開いた。泥のような睡眠からふっと浮き出てしまう時がある。一瞬、自分が何処にいるのか分からない。「フライトでパリに来ていて、今はホテルのベッドの中」と認識するまで数秒かかった。時計を見ると針は午前二時を指していた。どのタイムゾーンにいても、夜中に目が覚める時は何故この時間帯なのだろう。
しばらくすれば、また寝落ちることができるはず。そう思って目を瞑っていたが、数時間後にエリと会うことを思い出すと目が冴えてしまう。旧姓中川江理子、通称エリ。無神経なところがあるので、昔から苦手な人だった。何が『あ、河合さんのままなんだ』だ。
「アナタは羽村さんと結婚されて、さぞかし楽な人生を歩んでらっしゃるのでしょう。『エリです、ニコッ』だなんてよくやるわ。そんな年でもないでしょうに」
ーーくだらない。本人に言えなかったことを、ここで反芻してどうする。寝返りを打ち、エリのことを考えないようとした。だが、頭の中は、既にエリに占領されていた。
「生意気にビジネス・クラスなんて乗っちゃって、どうせダンナの会社が金出したんでしょ。私はね、私は・・・・・・」
頭の中で続けようとしたが、言葉が浮かんでこなかった。誇りとしていることが沢山あったはずなのに。
「『鬼カワ』と陰口を叩かれても、馴れ合うことなくやってきた。経済的にも自立している。これって大切なことなのよ。老後も人に迷惑かけないように、色んな保険にも入っている。誰かに頼ろうという生き方はだめよ」
後輩達には、時に触れこういう話をしている。だが、明日エリに会うと思うと、このセリフが空しく感じられた。この説教を聞いたら、エリは笑い飛ばすことだろう。
「ごめん、ムッとしないで。ようちゃんは相変わらず真面目だなぁ。いやいや感心感心!」
と歯並びがきれいに揃った白い歯を見せ、楽しくて仕方ない、という顔で笑うに違いない。
エリとは同期入社だった。実は女子大でも一緒だったのだが、在学中は接点がなかった。地味で有名な女子大の中で、唯一華やかなグループがあった。全員背が高いので、「タワーズ」と呼ばれるそのグループの、リーダー的存在、それがエリだった。長身なのに顔は小さくて、まさに八頭身。アイラインびっしり引いた大きな目と、あの形の良い口元。笑うと、まるで赤いむくげの花のような唇がふわーっと開いて、その場の照度が上がったように感じたものだった。
一方の私は、中肉中背、目鼻立ちも小作りな純和風だ。大学内の寮にいたので洒落っ気もなく、コンタクトは面倒だからと眼鏡をかけ、歯並びもガタガタ(初ボーナスで矯正した)という、冴えない女子大生だった。
だから、内定式で大学別に並ばされたとき、
「河合さんは短大学部の方?」
とエリに聞かれたときも、やっぱり私のことを知らないんだな、と流せばよかった。だけどエリの遠回しな言い方に反ってプライドが傷ついたのだ。
「は? 短大じゃないわ。近代史は一緒だったじゃない」
憮然と答えると、
「そうだっけ。ごめん、河合さん、若く見えるから短大部かと思っちゃった」
とエリは笑った。
入社後、私は社員寮に入り、エリは実家が財テクのために持っていた品川のマンションで一人暮らしを始めた。
二年経った頃、社員寮が売却されることになった。長引く不況のせいで、航空会社も資産を整理しなくてはならない局面に来ていたのだ。ちょうどその頃、エリとフライトで一緒になる機会があった。
「寮から追い出されるから、一人暮らししてみようと思っている」
と何気なく口にしたところ、
「ふーん、私、ルームメートがいたらいいな、って思ってたんだけど、どう? エリ子とヨリ子でエリ・ヨリ・コンビ。語呂も良し!」
とエリは笑った。
こうして二人の共同生活が始まることになった。ただ、「エリ・ヨリ」というのは勘弁してもらった。引き立て役にされたくない。それで私は「ようちゃん」という呼び名に落ち着くことになったのだ。
何ごとも鷹揚なエリだったが、私はルーズなことは嫌いだ。家の中のルールもしっかり決め、風呂場のドアや冷蔵庫に箇条書きにしたものを貼り付けた。エリは、そんな私を面白がり笑った。エリの笑いに戸惑う私に、
「いやぁ、ようちゃんはスゴイわ! ありがとう」
と、また笑いながら礼を言うのだった。
明るくて、楽しげで、こちらまで巻き込むエリコ・スマイル。何が可笑しいのか分からなかったが、釣られて一緒n笑っていた時期もある。
だが、ある時からそれができなくなった。エリの笑い声を聞くのも耐えられなくなった。それで絶縁せざるを得なかったのだ。あれから十五年経った。もう二度と会わずに済むと思っていたのに、また会うことになるなんて、どうしよう。
何度目かの寝返りを打ち、枕をぎゅっと抱き締めた。