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【短編小説】蝶の夢

文字数:約1,400文字
ジャンル:純文学

月光が紡ぐ夜の帳が、大正の東京を包み込む。その光は、まるで古い因習と新しい思想の狭間で揺れる人々の魂を映し出すかのようだ。華やかな街並みの一角に佇む洋館の窓辺に、一人の女性が立っていた。

澄子は、蝶のように繊細な指で窓枠に触れる。遠く銀座の灯りを眺める瞳に、憧れと不安、そして燃えるような情念が交錯していた。

「私は、この羽化の時を迎えてもなお、蛹の殻に縛られているのか」

彼女の問いかけは、闇夜にかすかに響く蝉の声のように儚く消えていった。

「お嬢様、お支度の時間でございます」

召使いの声に我に返った澄子は、鏡の前に立つ。着物の襟元を整えながら、彼女は自問自答を繰り返す。鏡に映る自身の姿は、まるで西洋の絵画に描かれた東洋の女性のようだった。

「私は誰なのか。この国は、この時代は、私に何を求めているのか」

澄子の父は、明治から大正へと移り変わる激動の時代に乗じて財を成した実業家だった。そして今、娘である澄子に、自身の事業を継ぐ男との縁談を持ちかけていた。それは、新しい時代への適応と古い価値観の保持という、相反する願いの具現化であった。

しかし、澄子の心は別の場所にあった。

数か月前、文学サークルで出会った青年・亮との記憶が、彼女の胸の奥で燻り続けていた。二人で歩いた上野の森の小径、語り合った夢と理想。それらは全て、澄子の心に深く刻まれ、まるで魂の一部となっていた。

亮は、新しい時代の風を全身に受けた青年だった。ニーチェやゾラを熱心に読み、既存の道徳観に疑問を投げかけ、自由な生き方を追求していた。そんな彼の姿に、澄子は心を奪われ、同時に自身の生き方に疑問を抱くようになっていった。

「私たちの社会は、蝶の羽を摘み取り、それでもなお飛ぶことを強いているのではないか」

ある日、亮はそう言って澄子の手を取った。その温もりは、今でも鮮明に蘇る。

しかし、身分違いの二人の仲を、周囲が簡単に認めるはずもなかった。社会の歯車は、個人の願いなど容易く押しつぶしてしまう。

澄子は、着物の袖から一通の手紙を取り出した。亮からの最後の手紙だった。インクの染みは、まるで流された涙の跡のようだった。

「僕たちの愛は、この時代には早すぎたのかもしれません。でも、いつかきっと花開く日が来る。その時まで、心の奥底で灯し続けてください。そして、あなたの魂の蝶を、決して摘ませてはいけない」

そこで途切れた文字に、澄子は新たな涙を落とした。その一滴一滴が、彼女の決意を固めていった。

窓の外では、銀座の街が今宵も華やかに煌めいている。その光は、新しい時代の幕開けを告げると同時に、古い価値観の影をも浮き彫りにしていた。

澄子は深く息を吐き出すと、決意に満ちた表情で立ち上がった。彼女は、自分の人生を自分の手で切り開く覚悟を決めたのだ。それは、社会との軋轢を意味し、孤独な戦いの始まりを意味していた。

「お待たせいたしました。参りましょう」

澄子の凛とした声が、静寂を破った。その声には、もはや迷いはなく、新しい時代を切り開く意志が満ちていた。

彼女は、最後にもう一度窓の外を見やった。そこには、月光に照らされた一匹の蝶が、夜空を自由に舞っていた。

大正という新時代。そこに咲く恋の花は、儚くも美しく、そして力強かった。澄子の背中には、新しい女性の生き方を模索する、一つの時代の光と影が鮮やかに映し出されていた。彼女の歩みは、やがて来る激動の時代への、静かな、しかし確かな一歩となるのだった。

(了)






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すとがれ
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