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変わっていくものの中にある変わらないもの 物事の二面性28

昔からあり変わらないものは一貫している。しかし単調でもある。逆に変わっていくものは柔軟だ。しかし節操がない。しかし本当に優れたものは変わっていく柔軟性を持ちながらながら、そこに変わらない一貫性があるという。

世界や自然や社会は常に変化している。変化しているのは、世界、自然、社会にそなわる内部の力によって生成発展し変化し続けるのである。しかし変化し続ける中に変化しないものがある。公田連太郎『易経講話』の「雷風恆」から引用する。

「つね」という字に、常の字と恆の字と二つある。常の字と恆の字とは、少し意味が異なっている。常の字は、日、太陽から出た字であり、日は変化することなく、大きくもならず、小さくもならず、万世の後に至るまで変化することは無いのである。これが常の字の意味である。恆は月から出た字であり、月は大きくなり、満月になり、それからだんだん欠けていき、ついに晦になり、また三日月から始めて光を発するのであって、始終、間断なく変化する。けれども、この変化の順序は、いつも一定しており、変わることは無いのである。これが恆である。常に変化しているけれども、その中にひとつの変わることの無いところの者があるのが恆の意味である。

例えば国や民族も同じである。日本という国も古事記の時代、平安時代、室町時代、江戸時代、現代、それぞれ時代によって文化は非常に違う。しかしそれぞれの時代の歴史や文化や文学にふれると、そこに変わらない日本精神が確かにある。

中国でも漢代、唐代、明代、現代で文化は非常に違う。しかしそこに変わらない中国の精神が存在する。

朝鮮半島も高句麗・百済・新羅時代と、李氏朝鮮の時代、現代で文化は非常に違う。しかしやはりそこには変わらない朝鮮の精神がある。
ヨーロッパでも、ギリシャ・ローマ時代、ゲルマン時代、近代、現代で文化は確かに違う。しかしそこにはヨーロッパの精神という変わらない連続性が存在する。

企業も同じだという。『ビジョナリーカンパニー』にIBMのトーマス・J・ワトソン・ジュニアの言葉が引用されている。

世界は変化している。この難題に組織が対応するには、企業として前進しながら、その基礎となる信念以外の組織のすべてを変える覚悟で臨まなければならない。組織にとっての聖域はその基礎となる経営理念だけだと考えるべきである。

社会はその内部の力によって生成発展していく。その変化に対応するためには企業も変化しなくてはならない。しかしそこには変わらない経営理念があると言う。さらに『ビジョナリーカンパニー』から引用する。

基本理念を、文化、戦略、戦術、計画、方針などの基本理念でない慣行と混同しないことが、何よりも重要である。時間の経過とともに、文化の規範は変わる。戦略は変わる。製品ラインは変わる。目標は変わる。能力は変わる。業務方針は変わる。組織構造は変わる。報酬体系は変わる。あらゆるものが変わらなければならない。その中でただひとつ、変えてはならないものがある。それが基本理念である。少なくともビジョナリーカンパニーになりたいのであれば、基本理念だけは変えてはならない。この点から、本書の中心になっている概念が導き出される。その概念とは「基本理念を維持しながら進歩を促す」であり、これこそが、ビジョナリーカンパニーの真髄である。

優れた企業は基本理念を変えないと言う。しかしその他の面では変化していく。技術は変化が激しい。ほんの数年で大きく変化する。ビジネスも変化が激しい。10年くらいで大きく変化する。政治は変化がそれより遅い。数十年単位。その点、思想は何百年たってもあまり変わらない。多少変わっていくが、基本的には変わらない。宗教に至っては何千年たっても変化しない。恐らく能や文楽などの古典芸能は変化せずに昔の偉人の創った文化を保持しなくてはならないはずだ。分野によってかなり程度の差は大きい。例外もある。しかし多くの場合に共通して言えるのは変化の中に変化しないものがある。『易経』の「雷風恆」である。

『易経講話』から引用する。企業だけではなく個人においても同様だと言う。

人間の身の上の状態も、一生の間には何時も同じなのでは無く、間断無く変化するのであるが、その変化している中に、ひとつの固く守るところがあって、いかなる場合にも変化することの無い節操があるべきである。これを恆といい、恆の心というのである。

君子は屹然としてしっかりと自分の立つべきところに立っていて、自分の向かっている正しい方向を変えることは無い。君子は自分の守るべき道を守って、長く久しくその志を変えることはないのである。

国や民族においても、企業においても、個人においても、自然においても「変わっていく中にある変わらないもの」という「雷風恆」という構造、パターン、本質、類型が分野横断的に存在する。

われわれ人間を含む生物も、一定期間で細胞はほとんどすべて入れ替わる。変化していく。しかし生きている間は自分自身という変化しない一貫性を保っている。

『易経講話』からさらに引用する。

長い年月にわたって、年々歳々同じことばかり行っているのは、恆の道に似ているけれども、これは恆の道の善き者ではない。時に臨み、変に応じて、正しき道を守って、適当に進んでいくところに恆の道があるのである。

「変わらずに変わらない」のは本当の恆の道ではないと言う。「変わりながら変わらない」ものが本当の意味で良い意味で「変わらない」ものだと言う。ハーモニー型中庸である。もちろんあえて「変わらずに変わらない」というOR型をとるのもひとつの戦略ではある。その点も追記しておく。

逆に言うと臨機応変に変わるけれどその中に変わらないものが無い人は節操がない人であり、信念が無い。これも恆の道から外れる。「変わりながら変わる」のも、本当の恆の道ではない。「変わりながら変わらない」ものが本当の意味でよい意味で「変わっていく」ものだと言う。

これもハーモニー型中庸である。「変わる」と「変わらない」という一見相反する者同士が、補い合い、支え合い、循環している。

さらに引用する。

変わらざるの恆すなわち変化することの無い恆の道があり、それと同時に已まざるの恆すなわち活動して休息することの無い恆の道があるのであり、それが相悖ることなく、同時に行われているのである。天地万物の状態は常にそうなっており、不変不易の恆の道が行われ、それと同時に活動して休息することの無い、恆の道も行われているのである。不変不易の恆と、活動して休息しない恆と、二つを合わせた者が、恆の道、本当の恆の道である。一方に偏っているのは正しい恆の道ではないのである。

天地は、間断なく運行し変化して止まり息むことはないが、その根本たる道は、変化することは無いのである。

同じ内容を述べている。

私は現在、ここ8年くらい、思想を勉強したことない人向けに分かりやすく中国思想を書くことを目標にしている。基本理念はそれである。日本人は表面的には西洋化されているが、深いところは伝統的日本人であり東洋人であるため、中国思想を深く理解する可能性があると思うからである。理念は変わらない。しかし実現手段はけっこう変化がある。

最初は『三国志』を通して儒教を解説しようと思っていた。日本は『三国志』ファンが多いし、陳寿が書いた歴史書の『三国志』を読むと明らかに中国思想を背景にして書かれている。しかし多くの日本人は、『三国志』の専門家も含めその点に気づいていない。いや気づいているとは思うが、深い儒教の理解からの解説書は見られない。思想に関する詳細な知識を背景に三国志を論じた論文はたくさんある。しかし中国思想の本質を理解したうえでの論文は恐らく現代日本にはない。だからこれが突破口になると思った。しかし書いてみるとしばらくしてネタが尽きた。さすがに長く見積もっても100年間しかない三国時代の事例だけでは、具体例が足りない。それに読む人を三国志のファンだけに限定するのもあまり効果的ではない。ということで『三国志』を通して思想を解決するのは基本的断念している。もちろん具体例として『三国志』を持ち出すことはけっこうあるけれど。

あと中国思想を中国思想だけで解説しても分かりづらいということにも最近気づいた。日本人は深いところは伝統的日本人であるが、表面的には西洋化されているので、少なくとも表面的には西洋の考えを混ぜないと理解されないのである。中国思想入門と題して以前記事を書いた。中国思想を専門に勉強している人からは「ああ、読んでくれたんだな」という反響があったが、思想を勉強したことない人からは「分かりづらい」という感想だった。

理念は変わらないけれど手段は試行錯誤が続いている。なかなかうまく行かない。

もうひとつ個人的な話をする。20代のとき大学を中退して食うに困って、アジア料理のレストランでバイトをしていた。そのレストランは非常にシェフのレベルが高く、料理は非常にうまかった。バイトの我々も試食したが、おいしくて驚いたものだ。しかし新装オープンの店で、しかも繁華街にあるとはいえ若干大通りから細い路地に入ったところにあって、必ずしも目立つ立地ではないので、最初客が少なかった。

せっかくおいしい料理なのに客がいないと言うのは、シェフの腕が振るえず、会社にとって損失だ、と言うわけで我々バイトにビラ配りが任されることになった。私が当番の日、大量のビラをもって配りに店を出た。

最初、何も考えずに店の前で配っていた。細い路地なのでそもそも通行人が少ない。しばらくしてこれはダメだ、ということで大通りに移動した。すると枚数はさばけ始めた。「お、調子いいぞ」と思っていたが、しばらくしてみるとその辺にそのビラがいくつも捨ててある。「こりゃダメだ」と思って拾ってごみ箱に捨てた。

「何でこうなったのかな」と反省したところ、ビラ配りの時に私は「よろしくお願いします」とか「新装開店の店です」と言って渡していた。「よろしくお願いします」ではビラを受け取ってほしいという気持ちは伝わるが、それだけ。「新装開店の店です」は「何か店がオープンしたのかな」と思うが、メッセージのピントが合わない。

どう伝えたらいいか考えた末、「アジア料理のレストランです」とこれだけを伝えることにした。道行く人は私の言うことを端から聴く気はない。しかもすれ違う時間も一瞬。言いたいことをひとつに絞った。

するとすぐ変化があった。アジア料理に興味がある人が受け取ってくれるようになったのだ。人によっては私の前を通り過ぎた後に「アジア料理なら」と言って戻ってきてビラを受け取る人もたくさん現れた。そしてビラを棄てる人がいなくなった。しかしまた問題が起きる。アジア料理に興味がある人だけが受け取るので、ビラがさばけなくなってきたのだ。

それでも根気よく配っていると、若い女性ほど受け取ってくれる確率が高いと気づいた。その当時若い女性の間でアジア料理が流行っていたのだ。そこで若い女性がたくさんいる通りに移動した。女性が買い物するようなアパレルショップが集まる場所で配り始めた。するとどんどん枚数がさばけ始め、配り終わって店に戻ると席は7割がた埋まっていてけっこうな盛況になっていた。

「よかった。よかった。」と思いその日はバイトを終えた。しかし次の日出勤するとまた店内はガラガラ。考えてみれば同じお客さんは2日連続で来てくれるはずもない。そこで店長に前日のビラ配りの経緯を報告した。そして我々バイトがビラ配りする時は、私がやったような方法で配るように周知された。すると徐々に安定して客が入るようになっていき、もともと料理の味が良いこともあって、数か月で客不足の問題は解消して行った。

これもおいしい料理を生かすため集客するという理念は変わらず、それを実現する手段はどんどん変わっていくと言う意味で、一応これも「雷風恆」の一例なのかなと思う。

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