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街 (8) 〜ホームの女と山の男

 タエさんとあの男のことが気になって、あれから何度か、私は山に登り、変電所に行ってみた。しかし、男の姿は無かった。ドアを叩いてもみた。
 改めて良く見てみると、建物の裏側にあるそのドアにはしっかりと鍵が掛かっており、それに、周りの壁に蔦が繁く這っている様子からして、そこに普段、人が駐在している風ではなかった。私が最初に見かけた時に、彼がコンビニの袋を提げていたので、変電所の中に、日々の仕事をする事務室のような場所がある気がしていたのだが、どうもそうではないらしい。ということは、彼は時々の作業であそこに行くだけなのだろうか。いや、そもそも彼は電力会社の社員なのだろうかとも思えてきた。彼が着ていたのを制服だと、私が勝手に思い込んでいただけなのかもしれない。
 タエさんと男のあの目配せは、私に、そういう問いを思い浮かべさせた。

 ホームを日常的に訪ねるのは続いていたが、あれ以来、三人の老婆が一緒に私に寄って来ることは無くなった。私が顔を出すと、二人の老婆は前と同じように私に接しようとはするのだが、リーダーのタエさんが明らかに私を見ないようにしているので、拍子が抜けたように、二人も私に近付かなかった。私と彼女達の遣り取りを面白がっていたホームの職員達も、何かあったのかと気遣いをした。
 しかし、或る日、いつものように私がホームで用事を済ませて、帰り間際に、奥まった所にある手洗いに入って出てきた所で、強い力で、更に奥の、裏口の近くまで引っ張っられた。思わず声を出しそうになると、すかさず口を塞がれた。タエさんだった。独りだった。
 「あんた、あの日見たことを誰かに喋った?」
 声は低く抑えていたが、凄い剣幕で、目を見開いて私を睨みながら、タエさんが言った。
 彫りの深い整った、そして華やかな顔で迫られて、恐ろしさの故か、それとも、その美しさのせいか分からぬまま、私はたじろいだ。だが、冷静を装って、
 「何のことですか?」
 と、私は一旦はぐらかした。
 「とぼけてはいけないわ。私には分かってるんだから。」
 タエさんは油断無く言った。その確固とした様子からは、彼女が認知症を患っているとはとても思えなかった。はぐらかし続けるのは無理だった。
 「ええ、確かに見ました。」
 私は、タエさんから目を逸らして、呟くように言った。
 「やっぱり!」
 タエさんは、他に聞こえるような大きな声で叫ぶように言ったが、怒りが一瞬で完全に消えて、自分の思いが当たって大喜びする子供のようなはしゃいだ顔に変わった。
 私は、またたじろいだ。その変化が、認知症ゆえの不安定さからのものなのか、女優としての技なのかが分からなかったからだ。
 「それで、誰かに喋ったの?」
 直ぐに元の顔に戻って、タエさんが言った。
 「いいえ、誰にも言っていませんよ。」
 「ああ、ありがとう!」
 タエさんは、また瞬間的に顔を変えて、今度は、満面に穏やかさを溢れさせた。
 しかし、
 「あの人はお知り合いなんですか?」
 私がそう尋ねると、タエさんの顔は少し固くなった。
 しばらく間が空いた。タエさんは言葉を探していた。
 「知り合いって程ではないわ。私達があそこにいると、時々、あの人も来るの。この街の人なんじゃないかしら。きっと散歩でもしているのよ。」
 「そうですか。でも、彼は制服のようなのを着ていましたね。何かの作業をしている人にも見えたのですが。」
 「あら、そうだったかしら。気が付かなかったわ。」
 今は、タエさんの方がはぐらかしていた。ただの顔見知りに過ぎないのであれば、彼女が私に詰め寄るはずがない。
 しかし、やはり顔見知りなだけというのもあり得はした。タエさんの中で、ただの顔見知りが重要人物のように膨らんでいるのかもしれず、或いは、あの男そのものというよりも、あの時彼と偶々目が合っただけの所を私に見られたことを、大人にじっと見られると何もしていないのに何か悪いことをしたと思い込む子供のように、不安になっているのかもしれなかったからだ。
 「そうなんですか。実は、私は、前に山の中で、あの人を見かけたことがあるんですよ。」
 話を進めないこともできたはずだ。だが、何故かブレーキがかからなかった。
 「あら、そうなの?」
 タエさんは、まだ冷静さを保っていたが、より固くなった。
 「ええ、山の中の変電所で。それで、あの後何度か、あの人がいないか、あそこに行ってみたんですよ。」
 タエさんの顔が、また瞬間的に、最初の、あの恐ろしい形相に変わった。


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