「小国寡民」は文明批判か
『老子』80章は、「小国寡民」の理想郷を描いたものとして有名だ。それは『荘子』天地篇の「機心」と関連した、文明批判として解釈されることが多い。しかし、文字を使わないことが、隣国をうらやまないことになるのは何故だろうか。
50章と75章には、民衆が豊かな生活を求めるために、身を危険にさらしてしまうとある。老子の生きた時代には、隣国は自分たちより良い暮らしをしていると扇動し、民衆を戦いに駆り立てることが行われていたのではないか。識字率が向上し、そうした宣伝が効率的に行えるようになった、という背景があったのかもしれない。
そうであるなら、焦点となっているのは文明そのものより、他章にもあるような支配者の欲望だろう。それは民衆をも欲深くし、争いを生むことになるのだから。
なお、先述した『荘子』の一節も、やはり人の欲望を問題にしていると思う。つまり、「機械を持つ者は、必ず(何かをたくらむ)機密がある。それがある者は、必ず(利益を上げる)機会を狙っている」という意味だろう。