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快楽追求は自然なことか 老子と楊朱

『老子』12章は、快楽を求めることを批判するものであり、楊朱の思想を意識したように思える。両者はその個人主義的な思想が共通するものの、この点に関しては対照的だ。

『老子』80章には、自分たちの食事や文化を良いものとするという文章がある。つまり、楊朱は快楽追求を自然な欲求と認識していたが、老子は他人に影響された人為的行為と考えていたのだろう。

例えば、『墨子』非楽篇は音楽を批判している。それは当時、音楽が単なる娯楽ではなく、王侯の権力を誇示する役割もあったためだろう。そうなると快楽というものが、自己の内面で完結するとは言い切れなくなる。

『列子』楊朱篇には「衣食住に好色、それ以外に何を求めるのか。それで満足しないのは、終わりのない欲望を抱くことだ」とあり、楊朱が一概に快楽主義者であるとは言えない。楊朱の快楽とは、老子の言う「腹を満たす」ような、素朴なものを想定していたのかもしれない。

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