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yoshimiyokoyama
誰からも愛される方法
恵盎は宋の康王に謁見した。康王はせっかちな様子で「私が好むのは、勇ましくて力のある者だ。仁義などどうでも良い。お前は、私に何を教えてくれるのか」と聞いた。恵盎はこう答えた。
「刺しても貫けず、射ても当たらない程度では、恥ずかしいくらいです。私は、そもそも攻撃する意思を無くす方法を知っています。それでもまだまだで、さらにあらゆる人々に愛される方法もあります。いかがでしょうか」
康王は「それはまさに、私が知りたいものだ」と言うと、恵盎はさらに続けた。
「それは、孔子や墨子のやり方です。彼らは領地も地位も無いのに、首を伸ばして待望しない者はいません。ましてや大王は大国の主ですから、その気になれば、孔子や墨子を上回ることさえ出来ます」
康王は何も言い返せず、恵盎は立ち去った。すると、康王は左右の者に言った。「何という弁舌だ。奴は私を論破したぞ」
『列子』黄帝篇には、以上のような説話がある。この「孔子や墨子のやり方」は、争わないことを徳とする道家の思想とも言える。一方で『慎子』威徳篇には、「愚者が賢者に従うのは、地位が高いからだ」という対極の思想が見える。この話は、慎到やその影響を受けた者を批判する意図があったのではないか。