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老子注解 1章 欲が無ければ見える
言うことの出来る道は、常にある道ではない。名付けることの出来る名は、常にある名ではない。名が無いことは万物の始まりであり、名があることは万物の成熟した姿だ。
だから、(名を求める)欲が無ければ、微妙な(道の)働きが見え、欲があればその結果だけを見る。この両者は同じ所から出たものだが、(無名と有名という)違う名を持つ。その同じものを深淵と言い、そのさらに深い所に、微妙なものの起源があるのだ。
「万物の成熟した姿」は、原文では「萬物之母」となっている。『老子』では、「母」は生みの親という意味で用いられることが多いが、それでは前の句との違いが分からなくなってしまう。河上公は「万物の母とは、天地が(陰陽の)気を含んで万物を生み、大きく成熟させ、母が子を養うようなものだ」としている。つまり、成熟の象徴として「母」と言ったものだろう。
この章の「名」は、ただの名前ではなさそうだ。2章と関連させて考えれば、老子が問題としているのは、美醜や善悪といった価値観を生み出す「名」に思える。高い価値を得ようとすることが欲なのだから、名にとらわれなければ欲も無くなる。そうすれば、名のもたらす先入観や、欲のもたらす感情に惑わされることも無くなる。それが、「欲が無ければ、道の働きが見える」ということだろう。
「この両者」は解釈が分かれる所で、王弼は「始まりと母」とし、河上公は「有欲と無欲」としている。ただどちらにせよ、同じものであっても視点が違えば違って見えるのであって、既存の価値観や欲にとらわれていては、物事の原因まで見通すことは出来ないということだろう。