"ある子ども"が気になっていた理由を考えてみた結果。

不登校支援に携わって約1年が経とうとしている。
その中で、一人の子どもがずっと気になっていた。
その子どものことは、関わり始めた当初は特に接し方や性格などに、気になるところはなかったと考えていたが、日々接する中で、結構難しいケースだと気づいていった。
「難しいケース」と思いつつも、私がその子について「なんとかなる」とずっと希望を持ち続けていられたのは、私がその子と同じような状態であった場面が、私が子どもだった頃にもあったからだ。

とはいえ、自分とその子とでは、置かれた環境や家庭環境も当然異なる。

だが、私はずっと、その子について、この1年間、めちゃくちゃ考えてきた。
というか、他の職員の誰よりも考えてきた自信がある。
考え、仮説を立て、実践し、また改善し、ということをこの1年ずっと続けてきた。

来る日も来る日もマジで考えまくって、正直、どんだけ私はこの子のこと考えとんねん、と、考えすぎていることについて自問自答したことは一度や二度ではない。

が、なぜそこまで考え込んでしまうのかについて、今日、やっと腑に落ちる回答が自分の中で見つかった。

その理由は、「その子が、私が社会課題だと考えている事柄の体現者だから」。

どういうことかというと、私はこれまで、「地域活性化」の文脈の中で、地方が抱える課題として、下記のようなことが挙げられると考え、その解決を図ることが、ひいては地域活性化につながると考えていた。

・シングルマザー、シングルファザーの子育て環境とその改善
・学校に適応できない子どもの居場所づくり
・そもそもの学校教育が現代の価値観と合わなくなってきている
・女性の地位、働き方、生き方
・経済的困窮、貧困
・生きづらさを抱えた人をどう社会が受け入れるか、受け入れてもらえるか
・精神障害を抱えた人は、どうやって社会に受け入れてもらうのか、社会は受け入れられるのか
・人付き合いが苦手な人の、社会との関わり方
・マイノリティの生き方、生きやすさ

なんだろう、かなりざっくり書いてしまったけど、要は、社会でマイノリティとされている集団の、社会における生きやすさをもっと広げたい、と私はずっと考えていた

その中で、今関わっている子どもは、上記に挙げた課題の大半をその身に負っている

だから気になるのだ。

私は、上記の社会課題を解決したいと思って、この10年近く、そんなような仕事については試行錯誤してきた。
ただ、私自身が病気だったこともあって、うまく行かないことのほうが多かったけど、寛解した今は、やっとその解決にまともに向き合える準備ができてきた段階だと感じている。

だからこそ、目の前の子どもを何とかすることが、その子の後ろにある社会課題を間接的にでも解決することに繋がる、と考えているのだ。

目の前のこどもの状態をより改善することが、私が目指す、「生きやすい社会をつくる」ことに繋がる。
目の前の子どもの状態をより改善することが、私が解決したい社会課題を一つでも解決することに繋がる。

それは結局、その社会課題によってしんどい思いをしている他の子どもを助けることにも繋がる、と思う。

私は、その、子ども…子どもというか、「困っている人」を助けて、その人を助けることで、背後の社会課題も解決していきたい、という、自分自身の欲望がずっとあるんだと思う。

だから、そのことについてずっと考え続けてしまうし、考えなければならないと、自分に課しているんだと思う。
だって、考え続けなかったら、それは理念として嘘じゃん。

なんかかなりざっくばらんな書き方になってしまったけど、1年間考え続けて、本当に、(なぜこんなに気になるんだろう?)というのが頭の片隅にずっとあった疑問だったんだけど、今書いたような理由が私の根本的な仕事する理由の中にあるからなんだな。

私は、生きづらい人を減らしたい
それが結局、私自身の生きやすさにも繋がるから。

目の前のこどもが困ってる状態をほっとけない。
それを何とかすることが、その背後にある社会課題を解決するし、その子ども自身を助けることにも繋がる。

なんというか、社会の構造によって、本人の意志や思いとは関係ないところで苦しまざるを得なかった子どもを助けたい
それが、「困っている人を助けたい」「生きづらい人を減らしたい」という仕事をする上で私が一番重視している理念として自分の中に鎮座しているんだなと。

まとまりなくなってしまったけど、私はこういう意図で、今までも仕事をしてきたし、これからも仕事をしていくんだろうなあ、できればやっていきたいなあ、と思う。

それにしても、マジで子どものことはなんとかしたい。
早く春休み終わってくれ。

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