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子どもに読書をさせるには。~大人の自分も環境の一つと考える~
今日、「子どもに読書をしてもらうには」ということを考える切っ掛けがあったので、メモ的に。
子どもに読書をしてもらうためには、私は、何よりも、それをさせたい大人である自分自身がまず「本を読む」ことが必要だと考えている。
子どもから見て、「本を読みなさい」とだけ言って、実際には何ら本を読んでいない大人の姿というのは、
・言動に矛盾がある
・嘘をついている
・本当は本が好きではない
・欺瞞的である
といったように、「本を読むこと」への不信感と、矛盾する言動をとっている大人自身への不信感の2つが生まれてしまう可能性がある。
私は、子どもは好奇心の塊であると思っている。
そして、どんなに無気力に見える子どもであっても、根底には好奇心が眠っていると考えている。
そういう子どもたちは、本人の努力だけではその好奇心の芽が出せない。
だからこそ、私は、大人も「子どもを取り巻く環境の一部」になることが重要だと考えている。
子どもを取り巻く環境として、「本を読む姿」、「本を生活の一部にしている姿」を見せるのだ。
大人がやっていることを、見ていないようで見ている子どもは、大人がやっていれば、必ず興味を持つ時が来る。
その時をずっと、大人側は待つ必要がある。
「読め」と言われて読む本は楽しくない。
ただの強制的な作業になってしまうからだ。
本を読ませようと思うなら、自分がまず本を読まなければならない。
って、これは、あなたが見たい変化にあなた自身がなりなさい、とか言う格言のような気がするけど、でも、実際本当にそうだな、と実感している。
そもそも、もっと踏み込んで言えば、「子どもに本を読ませる」とか、「読ませたい」とか言うこと自体が大人側の都合であって、子どもの自由をある種奪っている部分もあることに大人は気をつけないといけない。
果たしてこの子どもは、本当に今本を読みたいのか?という自省も、「本を読ませたい」などと考える大人に必要なことだと思う。
その時の子供の自由を奪って本を読ませて、そこで子どもに何を学んでもらいたいと考えているのだろう?
そこまで考えて、初めて子どもに何を望んでいるかも自分で把握できて、本を読むことの意義を自分の言葉で子どもに伝えられると思う。
それができていないのに、子どもに本を読むことを強制させるのは良くない。
「読めば好きになる」とか言うのも完全に欺瞞であって、作業的にやることに面白みを自分で見出だせる子どもは少数だ。
大人が、自分自身も環境であると考え、まず自身が本を読む。
それが、子どもに本を読む楽しさを伝えられる何よりの行動であると思う。
あと、蛇足だが、小学校高学年や中学生に対して、いくら中身が幼いからと行っても、絵本の読み聞かせは、本人が「やってほしい」と言わない限り、子どもを馬鹿にしていると子ども側に受け止められても仕方がないと思う。
確かに、言動の幼さが感じられる子どももいるかも知れないが、普通の子どもなら、それくらいの年齢であれば、大人から「子ども扱い」されることが、死ぬほど嫌なはずだ。
というか、中学生で、大人から「絵本読み聞かせてあげようか」と言われて「わあい」と喜ぶ子は一人もいないんじゃないだろうか。
「子どもだから」、「幼いから」、「まだ長い話や難しい話は読めないから」。
そう言って、勝手に子どもを評価し決めつけて、頼まれてもいない絵本を読み聞かせることに、子どもを「本好き」にさせる要素は皆無だ。
そんな環境を大人は作るべきではないし、そんな環境になってもいけない。
本を好きにさせたいなら、まず自分が実践する。
「子どもはこうだから」、「子どもにはこれくらいがちょうどいい」などと、勝手に子ども像を作って決めつけず、難しい本や背伸びしたくらいの本も色々取り揃える。
それでこそ、「未知の世界」にわくわくして飛び込んでいく好奇心の塊のような子どもが育つと私は考えている。
お仕着せの「読書活動」から抜け出して、わくわくするような、そして、深い感動や静かな感動に出会える読書に、子どもと旅できるような環境になろうと思う。