『中動態の世界』(國分功一郎)を楽しむための日本語文法 (その一)

『中動態の世界』(國分功一郎)を楽しむための日本語文法

 中動態というものが、古代ギリシア語にはあるらしい。
 聞いたこともないし、そもそも「態」がわからない。
 知っている「態」といえば、中学英語で習った能動態と受動態。でも、受動態がわからないなぁ。と思っていると、日本語で言うところの受け身表現だと言われる。
とすると、能動態とペアになるのが受け身表現となって、「態」がいつの間にか消えてしまう。
やっぱり「態」が分からない。

「態」ってなに?


 「態」が分からない。分からないなりに『中動態の世界』の中で探してみる。
すると、p75の引用部分にあるではないか!
「英語には三つ目の態はありません。主語と述語の関係を表現する別の方法はないのです」
ここから考えると、〈「態」は主語と述語の関係を示す〉と言える(と思う)。
能動態は〈主語が動詞の内容を「やっている」〉関係を示すし、受動態は〈主語が動詞の内容を「やられている」〉関係を示している、という具合だろうか。

ここまでの成果!
→「態」は主語と述語の関係を示すよ。

〈自発態〉の世界 能動態と受動態以外の態を日本語で考えたい

でも「態」がとりあえず分かっても、中動態のイメージがわかない。
で、中動態が何なのかがわかんないこともあるけど、消えた「態」を考えると何が見えるのかの予感がないと、わくわくしない。本を読むなら楽しんでよみたい。
ので、能動態でもなく受動態でもない「態」を考えるとなにを考えられるのかを、慣れ親しんだ日本語で考えてみる。

 日本語には、能動態と受動態以外にも、自発態というのがある(とWikipediaに書いてあった)。
 つまり、

①能動態
②受動態
③自発態

がある(他にもあるのかもしれない)。

ぼくの狭い見識で例文をあげるとこんな感じ。

① 好きな女の子のことを〈思う〉。    (能動態)
② 好きな女の子に〈思われる〉。     (受動態)
③ 好きな女の子の身の安否が〈思われる〉。(自発態)

 注目! なんと受動態と自発態の形が同じだ! 
 それもそのはずで、この二つは 「思う(動詞) + れる(助動詞)」という同じ構成要素からできている(と、学校文法では説明される)。
 じゃあ、なんで「態」が違うの? というと、それは「態」の定義に戻って、〈主語と述語の関係〉を考えてみたい。

 上の文に主語を補うと、

② 〈私は〉 好きな女の子に 〈思われる〉。
③ 〈私は〉 好きな女の子の身の安否が〈思われる〉。

 ②の〈私は〉と〈思われる〉の関係は、文の内容から「述語の〈思う〉の対象が主語の〈私〉だ」と読み取れる。述語を主語がされている。受け身表現を作っている。つまり、述語は「受動態」をとっていることになる。
 これは、馴染みが深い。

 ③の文はどうだろうか。ぼくには、少し不自然に見える(なぜだろう)。そして、説明するにも少し複雑に感じる。
 述語〈思われる〉の対象は「女の子の身の安全」。で、「思う」をしているのは主語の〈私〉。そうすると、主語-述語の関係は「主語 が 述語を している」となる。でも、これは能動態と同じ関係だ。
 困った。「主語が述語をしている」という観点だけでは、能動態も受動態も同じものになってしまう。
 でも、この二つはたしかに違うことを表現していると感じる!

 では、なにが違うか。
 それは能動態が「主語がする」ことを示すのに対して、自発態は「主語が(自分でやろうとしてないけど勝手に)してしまう」ことをあらわすという違いだ。「好きな女の子の安否」は、考えようとして考えることではない(と思う)。自然に浮かんでしまうことだ(と思う)。すくなくとも、学校文法上ではそういうことになっている。
 ここまで来ると、主語を補った②の文が不自然な理由がなんとなく見えてくる。
自発態は、動作主体である主語が意識せずにすることを示すため、主語が明示されると、態が示そうとする関係とちぐはぐな印象を与えてしまうのだ。ぼくなりの説明でいえば、自発態は「したあと」に「自分がしたこと」に気がつくことを示すもので、だから主語を省略したほうが自然と感じるのではないかと考えている。

 雑な論考だけど、これだけのことを考えるだけでも、「態」を考えることで考えることができることの広がりを感じられるきがする。

「態」を考えると知りたいことが、湧いてくる。

 日本語の中の「態」を追いかけてきたけれど、これだけでも面白い気がつきがある。

 一つは、能動態と自発態を比べると、二つとも「主語が述語をしている」ことは同じでも、述語をしているかどうかの意識のレベルが違うということ。これだけでも、誰がしているのかで対立する能動態と受動態の「パースペクティブ」(『中動態の世界』の中で用いられる言葉)と、能動隊と自発態のパースペクティブが全く違うことがわかる。
 そして不思議なことに、この全くちがうパースペクティブを持つ「態」 受動態と自発態が同じ形で示されるのである。

 なぜ、受動態と自発態は同じ形なのだろう(これについては別に書きたい)。
 態の違いで表される意識の差は、僕たちの現実にどんな影響を与えるのだろう。
 そして、もう一つ。
 近年の中学生を相手にこの自発態を教えると、とても理解するのに苦労をする。「主語が(自分でやろうとしてないけど勝手に)してしまう」という動作をイメージできないのだと思う。そして、ぼくの生活の中でも、たしかに自発態を用いた表現を耳にすることは少なくなっている。
 これは、何を示しているのだろう。

 これらの問いは、『中動態の世界』を読み進める上で、なにか補助線になってくれるような気がしている。


 また、これを書く中で、新たに気がついたことがある。
 自発態が表現する内容をしめすときに、「主語が(自分でやろうとしてないけど勝手に)してしまう」と、現在完了の時制を用いて表現するとしっくりくるということだ。『中動態の世界』の中でも、完了形が時制という枠組みを超えて意味をもつことが指摘されていたが、それは日本語で考えても収穫のある指摘なのかもしれない。

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