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境界線の上で向かい合うこと

いくつかの恥ずかしいはなしを含めて書く。

対話には「対」という文字が入っている。
対立の「対」でもあるし、反対の「対」でもある。
「つい」と訓読みすると「ペア」の意味にもなるのか。

「対立」と「ペア」を同じ一字に押し込むなんて、随分剣呑なことだけれど、たしかに哲学対話というのも、そういう危うさもはらんでいるように思う。

 ある読書で会の中で、参加者がおもむろに、でも鋭い声で「ぼくはミソジニーなので」といった。ミソジニー、といったその声を鋭いと思い出すのは、その時ぼくが感じた驚きでの、あとから加わった印象なのかもしれない。そのくらい、一瞬にしてぼくの腰は引けた。
 怖かったのかもしれない。
 ぼくとかれの間に、サッと、線が、境界線が引かれたのだ。
 おなじような感覚を覚えたことがある。

 今から二十年前、レインボーパレード(そのころは「レズビアン&ゲイ・パレード」といったと思う)。友人と参加し、その人がポロリと実は自分は当事者だこぼしたときに、自分のなかに、はからずも、線が走った。その感覚だ。
 このとき、ぼくはなにより、(自分で参加しているにもかかわらず)自分のなかに簡単に線が走ること、自分が走らせることに驚いた。
 20代の最初の頃のはなしだ。

 ぼくは簡単に線を引く。ぼくは簡単にはからずも線を引く。
 女/男 他国/自国 子ども/大人 生徒/先生 自然/人 ……

 でも、読書会の場で、新鮮な感覚としてぼくのなかに生まれてきたものがある。そのミソジニーを宣言したひとの話をきいているなかで、ぼくの立場とは全くちがうのに、その人の傷つきかたには、とても興味をもてたことだ。共感といってもいいのかもしれない。

「わたしとあなたは違う。でも、おなじ平面に立っている」

 引かれた線を挟んで、じっと耳を傾けていると、線に見えたものは、しっかりと幅をもっていて、じつはぼくたちは、その帯のようなもののはじとはじでに乗って、何かを共有して、話していることが見えてくる。


いつもあることなのか、分からないけれど、対話は、相互の間に引かれた線を、帯のような〈領域〉にかえていくことが、あるのだと思う。

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