「教養する」という動詞
※名古屋大の戸田山和久教授の著書『教養の書』のp95~p109のまとめて、再構築した文章です。
「教養する」という動詞が存在していた
「教養」という言葉を私たちは、普段名詞として活用している。しかし、明治時代まで「教養する」という動詞が普通に使われていた。
「親は子を教養する」といったように用いられ、「おしえそだてる」という意味を持っていた。しかし、動詞として使われていたという事実は何を表わしているのか。
それは、「教養」とは、手段であり、プロセスであるということだ。
ドイツ語にも同様に「教養」という意味に該当する言葉「Bildung」がある。「bilden」という動詞から派生した言葉であり、英語の「build」に該当する。「build」は、構造物をつくるプロセスを指し、その構造物自体を指す。
つまり、教養とは、形づくることを意味し、その結果としての構造物でものある。そのため、教養と結果物の人格がしばしば結びつくことがある。
また、ドイツ文学には、「教養小説(Bildungsroman)」というジャンルがある。このジャンルに位置する小説を読むことで、教養が身に付くということではない。このジャンルは、「いろいろあって大人になりました」と要約できる長い小説のことを指す。
このことからも、教養がプロセスであり、一種の人格形成と結びついていることがわかる。
「教養する」の誰?
教養するのは誰なのか?
その問いに関しては、家庭、学校、書物が挙げられるだろう。しかし、最終的には、自分自身で教養するということを忘れてはならない。このようなプロセスを、村上陽一郎は、「規矩」と呼んでる。
「規」は「コンパス」、「矩」は「ものさし」を指し、「自分の行動を規制する基準、お手本」といった意味を持つ言葉である。
我々は外部から刺激され、自分自身の規則を創造することで「教養する」ことができる。
わたしを「教養する」のは誰か?
以上の考察をまとめると、「我々は「教養する」というプロセスを通じて、自分の人格を形成していく」ということができる。このプロセスをダニエル・デネットは、「再プログラミング」と呼んだ。
われわれは、成長の過程で、自分の行動を統御するプログラムを徐々に書き換えていき、最終的には、自分のプログラムを書き換えることができるようになる。しかし、私たちは、コンピュータのプログラミングと違い、その都度調整する必要がある。
これは子供時代に受けた「躾」に関係する。両親は、禁止を突き付けることによって、再プログラミングをしていく。
「教養する」もこの延長線上にある。つまり、「規矩」で表現することができる「教養する」という動詞は、禁止の形をとり、極めて具体的な振る舞いを禁止する。そして、その都度、再プログラミングしていかなければならない。
「教養」の先の「人格」とは?
私たちは、教養する過程で、どんな自分を作り上げていくのだろうか。
まず、「教養する」を「自らに規矩を課して人格を形成する」と言い換えてみる。しかし、ある借金取りが「借金を取り立てるときは、人の話を聞いてはならない」というルールを自らに課したとする。この場合、自らに規矩を課している。しかし、教養があるとはいいがたい。
では、「教養する先にある人格」とは何か。この問いに答えてみるには、教養の社会的な次元を考えてみる必要がある。
ここで、ウィリアム・ゴールディングが1954年に発表した小説『蠅の王』を題材にして考える。この小説は、飛行機が墜落し、子供たちだけが無人島に置き去りにされてからのことが描かれた物語だ。子供たちは、はじめは協力し合って生き延びようとしていたが、次第に対立が深まり、最後には内なる情欲が爆発し、殺し合いをしてしまう。つまり、子供たちは「人間でなくなる」。この物語は、教養なき人間の極地を描いている。
蠅の王では、教養してくれるものも人もいなかった。そして、その先にあったものは、殺し合いであった。この小説は、教養の役割についての示唆を与える。つまり、「教養とは、世代を超えた人間社会(人間らしさ)を維持に用いられるものとして必要なものである」と。社会をできるかぎり多くの成員にとって道徳に望ましい状態に保ち、自らの行動も道徳に沿うように律することのできる存在が「教養する」先にある人格の正体なのだ。
社会の中で教養は育つ
以上の考察から、教養には社会の担い手であるために必要な能力と、自分は他者と共に生きる社会の一員だという自覚が含まれることがわかる。
教養は社会の中での他者との出会いから育まれる。これが「教養の社会的な次元」と呼ばれるものだ。
最も、教養とは何かという問いへの答えは、われわれがどんな社会に暮らしているか(あるいはどんな社会を目指すのか)によって異なってくるのだが。