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アルプスの旅 4 イタリア

クールマイユール、ドローネ、アオスタ


  十三日目

バスでイタリア・クールマイユールに入り、モン・チェティフへ、ドローネに泊る         

 SATバス       シャモニ駅前発     八時十分 
             クールマイユール着   九時
 ロープウェイ      クールマイユール発   十時
             プラン・シェクルイ着  十時十分 
 リフト         プラン・シェクルイ発  十時十五分 
             コル・シェクルイ着   十時三十分

この日は、シャモニ駅前からバスでイタリアのクールマイユールへ移動することになっていた。   
朝食が始まる七時に食堂へ下りると、既に大勢の日本人観光客がテーブルについていた。中年のインド人給仕が一人で大きな体を忙しく動かしながら、コーヒーや紅茶や日本茶、オートミールや牛乳やヨーグルトや果物をそれぞれのテーブルに運んでいた。出発を急ぐ我々も朝食を催促したが、団体客の思い思いの注文で一杯になった彼の耳には届かないようだった。
三十分も待たされて、やっと我々のテーブルにもコーヒーとパンがきた。
食事もそこそこにスーツケースをクロークに預け、軽ザックを背にホテルを出た。
広場を横切り橋を渡ると、直ぐ駅が見えた。駅前の長距離バス乗り場には、既にクールマイユール行きのバスが入っていた。
SATのバスはエギュ・ド・ミディ真下を通るトンネルを抜け、イタリアへ直行する。トンネルの長さは十一キロメートルもある。中央部分が高く、両端の出入り口に向かってかなりの勾配がついている。トンネル内をどのように換気しているのであろうか。最近トンネル内で火災があり、五月まで通行止めになっていたそうだ。トンネル内は車輌台数を規制しているらしく、入口で大分待たされた。
それにしても便利になったものだ。シャモニからモンブランをくぐり抜け、直接イタリアへ行けるとは。
クールマイユールはモンブラン頂上から南東十キロメートルの位置にあり、スキーが盛んな冬のリゾート地である。かつては、モンブラン山群の登山基地としてシャモニと同格に位置していた。
アルプス登山の黎明期、アルプス四千メートル級へのアプローチを、中世からスイスとの交易ルートとして開かれていた北イタリア側から採ることが多かった。
ウィンパーもクールマイユールからグランド・ジョラスやモンブランの南斜面を登攀している。
バスターミナルは、北西イタリアとフランスとの中継地として賑わっていた。

クールマイユール・バスセンター

クールマイユール中心街を抜けてロープウェイ乗り場へ移り、スキーを持ち込める大型のゴンドラでプラン・シェクルイへ向かった。更にリフトを乗り継いで、標高千九百五十六メートルのコル・シェクルイに上がった。
リフトを降りると、左手にピクニックの場所があるのかバスケットを持った地元の家族連れが三々五々坂道を登って行った。
我々の目的地モン・チェティフは右手を進み岩山を登る。標高二千三百四十三メートルの頂上にはマリア像があり、モンブランが正面に見えるが筈だが、濃いガスが懸かり望むべくもなかった。
登山口近くのヴェニの谷を見下ろせる場所で昼にした。晴れていれば、その先にモンブランが聳えているはずである。
そこからクールマイユールまで下る道すがら、高山植物の宝庫であった。ツェルマットやミューレンの山で見慣れたキンポウゲが見渡す限りの大斜面に咲き競い、まるで黄色い絨毯を敷きつめたようであった。ヴェニの谷を見下ろす丘に大ぶりのヤナギランが群生し、谷からの風に葦原のようにざわめいていた。近づくと小さなピンクの花が一つ一つ可愛らしかった。草むらの中でキキョウ科のヘアベルがかすかな風に揺れていた。蛍袋と見まがう蕾の先に小さな花弁を開いたエキゾチックなマンテマ、福寿草のような花柄に濃いオレンジの花をつけたベンケイソウ、野苺ような実に小さな無数の花冠をつけた肉穂花序をもつ植物。初めて見るアルプスの花は豊かで刺激的だった。

黄色い絨毯 キンポウゲの大群生
ヤナギラン

クレマチスやオダマキなど物静かな花も見られたが、どちらかと言えば他の場所に較べ大柄で華やかな科属が多かった。そこ此処で野ばらの植生が見られ、植物の原始を窺える場所だった。
あまりの見事さに次々とシャッターを切り、フィルムがたちまち満てた。
九十九折の急坂のそこここにネットが張ってある。スキーコースなのだろう。ネットの下は数十メートルの断崖である。

風情ある山荘


人家に近づくころ、坂道で子どもたちが、プラスチックコースのソリを楽しんでいた。「ボンジョルノ」と声をかけると、突然の東洋人の出現に戸惑っている様子だった。ドローネ小学校の裏庭であった。ドローネ地区は、クールマイユールから一.五キロメートルほど山に入った寒村である。昔ながらの石造りの家と木造のモダンな家が混在している。道が入り組んで迷路のようだ。その夜の宿は古いドローネ通りにあるという。
庭の手入れをしていた婦人にホテルの所在を聞くと、途中まで案内してくれた。

ドローネの路地

ホテル・ドローネは、たまたまインターネットで見つけ、今回の旅で最も期待していた宿である。ホテルの佇まい、建物や部屋の拵え、設備、料理、すべて予想を遥かに上回るものだった。チェックインし、先ずビールで喉を潤した。

ホテル・ドローネ

案内された部屋は最上階の三階で、窓からの眺めは素晴らしいものだった。近くに石屋根の古い家々、その先クールマイユールの彼方に目をこらせばグランドジョラスが遠望された。

ホテルの窓から
前方奧の山はグランド・ジョラス

相棒がピザを食べたいという。クールマイユールまでは三十分も歩かねばならない。途中に店があればいいがと出かけた。

ドローネからクールマイユールを見下ろす

車道を下りていくと運良くバスがきた。手を上げてクールマイユールと言うと頷いて乗せてくれた。バスセンターで降り、街中に入りピザ屋を捜す。レストランに入りピッツアを注文すると、あそこが良いと百メートルほど先のピザ専門店を教えてくれた。
大通りの坂の途中に小さなピザ屋があった。店先に粗末なテーブルとベンチが置かれ、若い二人連れがピザを食べていた。古ぼけたドアを押すと、親父さんが生地をこね、おかみさんが注文のピザを焼いていた。目の前のテーブルには、いろいろな種類の生ピザが並べられていた。
香草入りのピザが、珍しく、注文した。
外のベンチに腰掛け、交差点で車を誘導するお巡りさんの昔懐かしい姿を眺めながら、大きなピザを頬張った。
他所から来たのか、交差点の真中に車を止め、お巡りさんに道を聞く車が多く、その度に交通渋滞になるがお巡りさんは一向構わず、丁寧に身振り手振りで行く先を教えていた。
ピザのあまりの旨さに、アンチョビ入りを追加し、これも、あっという間に食べてしまった。
道を下り、バスセンターで待つと、先程のバスがやって来た。運転手が、どこに泊っているのかと聞くので、ホテル・ドローネと答えると、あゝドローナかと言って、一番近い停留所で下ろしてくれた。
ディナーは七時半だが、大きなピザを二つも食べてしまった。まだ時間があったので、ベッドで横になった。
八時過ぎ、地下のレストランにいくと、其処がまた素晴らしい場所だった。広い部屋の真中をアーチ型に石積まれた大きな梁が支え、石張りの床にモダンなテーブルや椅子、クロス壁の内装がよく調和していた。さらに、石造りの暖炉や、所々にはめ込まれた石壁がアクセントを添え、間接照明の中央には、大鹿の角をあしらったシャンデリアが下がり、少し高さを変えた数層のフロアーが、部屋全体を一体化させていた。
まるで十七・十八世紀の裕福な貴族が造ったダイニングに、踏み込んだようであった。中央フロアーの隅のテーブルに案内され、周りを見ると、既に十組近い人たちが食事をしていた。

ホテルのレストラン

黒服の給仕がきて注文を聞いた。イタリア語なのだが、スモークサーモンとかセコンドピアットという単語は聞き取れた。それぞれ二、三品ずつ用意されたコース料理のメニューから選ぶのであるが、書かれたものがないので給仕の説明に仕方なく頷くだけ。とはいえ、腹が満ちていたので、パスタだけは遠慮した。
結果的にはこれが正解で、胃袋に余裕を持って味わうことができた。
前菜から、スモークサーモン、野菜のスープ、生ハムとカマンベールチーズ、ハーブのサラダ、セコンドピアットはトマトのコンフィを添えた仔牛のカツレツ、ドルチェは西瓜のサングリア、最後にコーヒーが出た。
初めに取った白ワインは食事なかばでなくなった。二本目に赤ワインを注文すると、例の給仕が自分の郷里の絶品だと推奨したボトルを持ってきた。これが仔牛料理によく合った。
クレソンともう一つの香草が胃袋を刺激し、オリーブオイルで茹でたトマトの風味が淡白な仔牛肉を引き立て、同じ香草で作られたソースの彩りも洒落ていた。生ハムとカマンベールは飛び切り新鮮で、芳潤な味がした。
こんなにも旨い食材があろうか、といえるディナーだった。
相棒は、後から来て隣りの大テーブルについた人たちが、大皿山盛りのスモークサーモンを特注し、美味そうに平らげるのを羨ましそうに見ていた。
隣は十人あまりのグループで、先程までレクチャールームにいたマフィアの一団とおぼしきメンバーだった。カメラを隠し持っていたので、密かに撮ろうとすると、相棒が、見つかると大変なことになるわよと顔をしかめたので、会話本を開き、恐る恐る「ポッソ・フォトグラファーレ」と伺うと、意思が通じたのか、大歓迎され、一緒に肩を組んで写真を撮った。
大満足して部屋に戻ったときは、十一時近かった。そのまま、心地酔く眠った。

   十三日目
 アオスタを散策し、シャモニに戻る                       

  Savdaバス    クールマイユール発    十時十分
               アオスタ着        十一時二十分 
            アオスタ発         十三時四十五分 
            クールマイユール着     十四時五十分 
  SATバス       クールマイユール発     十五時十分
            シャモニ着         十六時

アオスタは北西イタリア、ヴァツレ・ダオスタ(アオスタ渓谷)の州都で、ミラノから北西二百六十キロメートルの位置にあり、トリノを経由し電車が通っている。
ローマ皇帝アウグストの時代に建設された都市で、凱旋門や劇場など古代ローマ遺跡がある。古くから北西イタリアとスイスとの交易地として栄えていた。
マルティニまで六十キロもないが、年間の半分は雪にうずもれる標高二千四百七十メートルのグラン・サン・ベルナール峠を越えるのは難儀だったという。
マッターホルンまでは北東に三十七キロ、スイスの交通網が近代化されるまで、登山家たちは、この地を経由しツェルマットに入っていた。マッターホルンの南麓にあるブルイユ村は、現在もヴァリス・アルプスの登山基地として利用されている。
その日は小雨勝ちの天気であった。クールマイユールからのバスは街道の途中、小さな部落に寄りながら尺取虫のように進んだ。前夜のワインも手伝ってか、二人とも、すっかり車に酔い、アオスタのバスセンターに降りたときは遺跡巡りする気分でなかった。
バスセンターから道路を隔て鉄道の中央駅があり、駅前の大通りを上ると官庁街、その先に市庁舎や大きなホテルに面したシャノー広場がある。広場で座る場所を探したが、幾つかのベンチは浮浪者風の人たちに占領されていた。

アオスタ中央駅
トリノまで145km 電車が通っている
官庁街の一郭 手前は体育館
中央広場にあるホテル 1Fはレストラン

広場に面した大きなレストランがあり、テラスにテーブルが並んでいたので、そこに腰を下ろした。相棒がトマトジュースを飲みたいというので、レストランに入り注文した。ほどなく、ボーイがトマトジュースとカナッペを載せた皿を持ってきた。
一口飲むと、トマトジュースに添えられた香辛料が効いたのか、不快な車酔いが吹き飛んだ。不思議な酔い止めジュースであった。鰯が載ったカナッペを食べてみると、添え物としては、もったいない代物であった。
此処で念願のパスタを食べようと決め、元気が出たので先ずはウィンド・ショッピングに繰り出した。アオスタは田舎都市であるが、小売店のディスプレイが、それぞれ素晴らしい。

ショッピング通り

それに物価が安い。綿サテンの洒落たシャツがあったので、価格を見ると七十ユーロ、帰国後東京のデパートで見かけた似たようなシャツが二万六千円であった。せこい旅をしていると、みみっちくなる。あの時、思い切って買えばよかったと悔やまれる。
相棒は靴道楽で、盛んにウィンドウを覗いていたが、店は十二時を過ぎると昼寝タイムに入りドアを閉じてしまう。幸いにして、お金を使わずにレストランに戻った。
パスタはナポリ風を注文した。硬茹でのフェデリーニは舌触りがよかった。
雨が止まず、遺跡見物を諦め、早々にバスでクールマイユールを経由しシャモニへ帰った。
シャモニのホテルに戻ると、前日と同じ部屋をあてがわれ、再び重いスーツケースを運び上げた。モンブラン登頂の疲れが、じわじわと出てきた。
この旅の最後に、サースフェーからアラリンホルンを登る予定であったが、もうこれ以上緊張を続けるのはごめんと、重い登山ブーツを送り返すことにした。シャモニ中央郵便局へ行き、フランス語会話本を片手に窓口のオネーサンと交渉し、七十二ユーロで荷物を自宅まで届けてもらうことにした。
その夜はどんなに高級なフランス料理も喉を通りそうになかった。シャモニを訪れる日本人客に有名な「さつき」で、家庭料理まがいの日本食を味わい、生き返った。


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