小説の長い文こそ言葉遊びを教えてくれる
本が好きだと公言する人は多い。私の周りの友人たちも例外ではない。
しかし、私が「最近どんな本を読んだの?」と聞いた時に「嫌われる勇気」と答える人はいても、「ハムレット」を読んだという人は少ない。
「FACTCULNESS」と答える人はいても、「騎士団長殺し」を読んだと答える人は少ない。
最近の私くらいの年齢の者は読書が好きだという割に読むジャンルは自己啓発本やビジネス書の類ばかり。
よくて教養がてら歴史書を読む程度で創作や戯曲は体感あまり読まれていないようである。
私の作る文章や操る言葉は他人のお手本になる程良いものではない。故に指摘する立場にあるかわからない。それでもこういった「若者の小説離れ」は、味わいある文章法や言葉遊びから若者を遠ざけていると私は考えてしまう。
実用と娯楽
自己啓発本やビジネス書というのは第一に読者へ有益な情報を与えることを目的として書かれている。
それは「勤務先でミスしない方法」や「人生をより楽しく生きるメソッド」だとか、”実用性がある”という意味での有益さが当てはまることが殆どだ。
私たちがこの類の本を読む目的は記されている実用的な情報を実践するためであり、それらを表現する言葉を味わうためではない。
つまり、読むことは手段で読んだことの実践が目的に当たる。
作者は当然このことをわかっているため、文章を読者が早く理解できる簡単なものにする。手段のみで読者を苦労させることは本そのものの評価に支障をきたすからだ。
故にこのジャンルには私たちの想像力を刺激するような文章が少ない。
さらに厄介な事はビジネス書の中でも「文章術」について書かれている本の殆どが”文章を書く時は余計なことは削ぎ落として簡単なものにすべき”と言っている事である。
この主張が間違いだとは思わない。
しかし、世の中には長い形容表現、比喩表現、枕詞の羅列があったとしても、私たちを感嘆させるような素晴らしい文章が存在する。こういった言葉の表現を小説を通して知ってほしいと私は思うのだ。
戯曲や創作物のような小説の類は元より読ませることが目的として作られている。そのため文章自体に魅力がなければその本の評価は低くなる。
勿論、作者は読者が惹かれるような文章を書かなくてはならない。しかし、前提としてこの手のジャンルは性質として少なくとも自己啓発やビジネスの類より煌びやかな文章になると言えよう。
戯曲とは本来舞台の脚本として作られる劇的内容物を小説に即して書かれる創作である。故に視覚あっての演出や俳優の演技、舞台全体の雰囲気に至るまで、文学的表現による補助が必要になる。
流石にこの補助を多すぎるとか贅肉だとか言って削ぎ落とすことはできない。そんなことをしてしまうと舞台本来のダイナミズムが失われてしまう。
それより、舞台における視覚情報をどのように言葉で表しているのか、読みながら発見していくのはこの上なく面白い。
作者による独特な表現や言葉選びは本来なら目で追うべき動きを文章でありながら絵として私たちの脳に焼き付けてくる。
まさにこの重量級の表現に長文特有の素晴らしさがある。これを以て、文学的装飾のあり方を学ぶことができる。
私が危惧することは良い長文、悪い長文の判別ができないまま短文正義を実行することだ。
文学的装飾が施された創作や戯曲を読むことで、長文中のなにが贅肉でどこが装飾なのか理解できるようになり、短文表現についてもそれが補助として相応しいか蛇足か見極められるようにもなる。
さらに実用的な文章力を鍛える本を読むことで短文の伝達効率のよさを始め、読み手側が軽快に読める言葉遣いを学ぶことができる。
様々なジャンルの本を並立して読むことで初めて、言葉遣いの分別ができるようになるというものだ。この類は俗物的だとか形式的過ぎるとかで偏った読み方をすることは良くない。
言葉で遊ぶ
かつては中華最難関の試験「科挙」で漢詩は必須とされた。日本でも意中の相手へ求愛する時には短歌を送った。私たちにも必ず言葉遊びの本能が眠っているはずだ。
こういった”言葉で絵を描く”ような文章を現代人が使うことは減ってしまった。書くことを恥ずかしいとさえ思っている。
目まぐるしく進む今の時代において、自らの想像に訴えてくるような文は面倒くさいものなのかもしれない。実物をみるための移動手段や映像化機能も充実しているため、なんでも言葉で表現するのは遠回しでもある。
それでも、私たちは毎日言葉や文字を使い続けている。その上で言葉で何かを表現すること、より印象的にするために文を着飾ること、これらを面倒くさいだの時間の無駄だの一蹴するのはあまりにも勿体無い。
だから、小説家たちの作品を借りてちょっとだけでも学んで欲しい。そして使って欲しい。
たまにつける日記だとか、ふと送るメールだとか手紙だとかで遊んで欲しい。
そうやって今も日記を通して言葉遊びをしている私は恥ずかしい奴に見えるかもしれないが、意外と私自身は恥ずかしくない。
もっとも私の文章構成や遊び方をみてもっと良い見本があると探してもらえれば本望かも知れない。
最後が雑なのはいつものこと。外山滋比古さんごめんなさい。
まるへー