コラム
〈小林秀雄 試論〉
2.批評家誕生
近代批評に作者と作品について論ずるその仕方を尋ねれば、おそらく次のような言葉を聴くことができるはずだ。〈・・・作品の背後には作者という具体的な顔を持つ一人の人間が立っている。この場合の作者とは他の人々には窺い知れない資質と個性をたずさえ、他の誰かと取り替えのきかない具体的な生涯という軌跡を描いた(描きつつある)ある人物のことを指している。けれど、この人物は、本来的には言葉の世界でしか出逢うことのない人だ。だから批評も、ある作品を論じようとする場合、言葉を媒介にして作者という一個の人間が描いた幻想の描線のある部分に対応させようとする。つまり、作品を作者=内面を備えた人間という場所に帰趨させるのだ。・・・〉だが、この言葉をひととおり了解することにしても、まだ本質的な問い、答えることが最も困難な問いが残されている。いわく、〈批評とはナニカ?〉というのがソレだ。これは〈批評家〉にとって最初の問いであり、最後の問いだ。〈批評家〉の〈誕生〉と〈死〉に立ち会う問いだ。だから現在までの〈近代批評〉的な著作物にとって、〈批評家〉とはその〈誕生〉の瞬間からその問いを突きつけられ、生涯、その答えを自らの言葉の営為の中に模索しながら、彼の〈死〉まで宿命のように背負い続けることを、強要されるもののことを指していると言ってもよい。何故ならこの問いかけに答え続けようとすることが、〈批評〉への可能性の必須の条件であり、そしてこの問いを自らに問い続けることが、〈批評〉の推進力であり、その生命の源泉だからだ。かって自らの言葉の営為でこの問いに本格的に答えを与えようとした巨匠がいた。
〈小林秀雄〉。この巨匠は、どう控えめな評価をしても、近代批評の創始者の位置から動きそうにない。
彼こそは、批評の原理や作品や作者を論ずるその仕方の、すなわち、オリジナルな批評の器の鋳型から、その器に盛る言葉という素材の盛り方、素材の調理の仕方まで、ほとんどただ一人で練り上げ、洗練し、一つの型にまで仕上げた、近代批評史上稀有の批評家であった。
この批評家の出現によって、〈批評とはナニか?〉という問いに対する答えは、ほとんど確定され、不動になったかのように見えたほどだ。
(この項続く)