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希死念慮には癖がつく

昨日、いくつか不愉快なことが続いて軽く錯乱状態になっていた。こういう時、全くもって人間一人なんて無力なものだと痛感します。自分ではどうにもできず、知人に慰めてもらうことで心を落ち着け眠りました。しかし、夢の中にしたって必ずしも快いという訳ではなく、僕の精神状態が見事に反映され、自宅で親に刺殺されるという悲劇的なものだった。

いつからだったろう。気づけば僕は、少しでも嫌なことがあるとすぐに「死にたい」と考えるようになった。もし、辛い気持ちが段階的なもので、その局地が希死念慮だとするならば、僕はとっくに末期ということになる。問題なのは、それだけ辛く苦しい思いをしていることより、むしろ軽率に「死にたい」と考えてしまうことにある。

人生の中では幾度となく辛い経験をする。その辛さの種類や度合いは多種多様で、安易にカテゴライズや数値化をすることが憚られるほどに複雑だ。いずれにせよ、そうした場面において一度でも「死にたい」という考えが過ってしまうと、辛い→辛いのは嫌だ→じゃあ死のう、という思考パターンの癖がつく。こいつが実に厄介だ。

本来、「死」なんて普段は意識しないものなのだ。死は生物が本能的に避けるものであり、可能な限り意識の外に置いておく。身の周りで誰かが亡くなった時、大勢が死亡するショッキングな事件・事故が起こった時に「人は死ぬんだ」という現実を直視するくらいで、日常生活において「死」など場違いも甚だしい。

けれど、たった一度でも本気で「死にたい」と考えてしまうと、もう取り返しがつかない。途端に「死」が身近なものになる。たとえば仕事が辛くてたまらない時、頭の中には「誰かに相談する」「休職する」「退職する」といった選択肢が並んでいることでしょう。ここに「死ぬ」が追加される。わかりますか?恐ろしいのは、「死ぬ」が「休職する」や「退職する」と同列にあることなのです。それほどに「死」が自分のそばをついて回るのです。

いくら年齢的に若かろうと、これでは老衰を待つ高齢者と何ら変わらない。直感的に「それとこれとはワケが違うだろう」と思われるかもしれない。しかし、誰にだって「今日事故や災害に遭って死ぬ可能性」は平等にある。こうした外的要因による死を除けば、あとは個人の意識の差なんですよ。辛い現実に喘いで死を意識する若者も、老衰によって死を意識する高齢者も、「死を身近に感じている」という意味では同じように思えるのです。

世の中には、僕よりずっと歳上なのに「人生で死にたいと考えたことなんて一度もない」という人もいます。では、その人はこれまで一切辛い思いをしてこなかったのか。そうでなくとも、「死にたい」とまで思い詰めるほどの経験をしていないのか。ちくしょう幸せな人生を歩みやがって!とやっかむのは、おそらく誤りです。その人は僕と同等、あるいはそれ以上に辛い思いをした経験があるかもしれない。ただ、そこで「死にたい」とは考えなかったのだ。その人は幸せな人生、というより、正しく人の道を歩んでいる。そうでありたかった。

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