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止まぬ他者依存

 僕がタバコをやらない理由の1つに、自分が依存体質だからというのがある。酒やタバコのように、それ自体の依存性が科学的に証明されているものでなくとも依存してしまう性分なのだ。だから、タバコも吸い始めれば十中八九ハマってしまうでしょう。それを分かっていながら、金銭的負担と悪臭が確約されたタバコに手を出すほど身の程知らずではない。
 依存とはすなわち弱った心の拠り所ですから、メンタルが不安定な僕は常に依存先を求めているのですけどね。宿主なくして生き延びられない寄生虫のように。

 酒やタバコに頼らなくとも問題はない。けれど、生きていく上で他人と関わらないわけにはいかない。身の回りを見渡してみるだけでも分かる。PC、モニター、キーボード、スマホ、デスク、椅子、四方を取り囲む壁と頭上の天井。もっと細分化することもできるが、キリがない。しかしどれをとっても、僕という人間1人では実現しえない生活空間が僕を包んでいる。僕のできることなんて、生命維持活動をはじめ摂食、排泄、入浴くらいであって、そのほとんどが消費と消耗である。何も有意義なものを生み出していない。いかに他者に支えられた毎日を送っているか、嫌というほど分からされる。

 オブジェクトだけではない。精神的にも他者を頼りにしている部分は大きい。
 体内にはさまざまな器官があり、それぞれ求めるエネルギーの種類も量も異なる。1つ1つの要望に細かくサインを出していては埒が明かないので、いったん「腹が減った」と一言にまとめておく。
 メンタルはまた違った意味で複雑だ。明確に「この要素が欠乏している!」と表すことができない。細々としたSOSをひっくるめて「さみしい」と言っておくのだ。
 
「さみしいなあ。」
 そう思わない日はない。来る日も来る日も人の温もりを求めている。だから毎日誰かに向けて言葉を発信し続けている。ネット上の人格なんて自由自在なのだから、都合のいい部分だけを見せることだってできるんだ。それが性に合っている人はそれでいい。けれど僕はそれでは満足できない。上辺の情報で作り上げられた人格を認めてもらっても、自分自身は満たされない。

 先日、久々にTwitterのスペースで喋った。やっぱりスペースは勇気が要るね。なんたって自分の声で喋るのだから。いつも文字ばかり書いているので、声の持つ情報量に特別ビビってしまった。
 声色、トーン、発声の仕方、息遣い、話すテンポ、言葉選び。喋るというたったそれだけの行為で、聞き手にとんでもなく多くの個人情報を開示していることになる。聞いてくれた人が何人かいましたが、スペースによって僕に嫌悪感をおぼえた人もいるかもしれない。先に挙げたような、文字だけでは得られない僕のパーソナルな部分に触れ、興が醒める。声がキモいとか、喋り方が生理的に受け付けないとか。
 そういう事態が起こるのを分かっているから、自分を出せば出すほど怖くて仕方がない。でも、出さないと自分が満足しないんだからしょうがないじゃん。ふるいに掛けて掛けまくって、最後に残った人たちが受け入れてくれればそれでいいよ。

 冒頭で、僕は当然のように「タバコの煙は悪臭」と決めつけましたが、こういう発言は一部の愛煙家から反感を買うことでしょう。言葉を紡げば紡ぐほど、嫌われるリスクは増していく。気にしちゃいられない。
 僕に興味を持って近づいて来てくれる人も、1〜2カ月もすれば飽きて離れていく。これの繰り返しで、そうやって人の世は流転していくのだ。1つ1つの関わり合いに依存していてはくたびれる。僕が求めているのは、ろ過装置を最後までくぐり抜けて来てくれる人なのだから。

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