殺人的な遺伝子を継ぐ僕ら
目の前の1日1日を生きていると、直近の1週間、1カ月、1年ばかりに関心がいく。それは短いような長いような、振り返るとあっという間だったような、同じ歳月でも感じ方はさまざまだ。体感が違うのは当然として、基準となる事象が何かによっても、長い又は短いの捉え方は変わってくる。
人気店のスイーツが1年待ちだ、と言われれば、その1年を長いなと感じる。寂れた田舎町において、1年後に大型ショッピングモールがオープンすると言われれば、その1年は短いような気もする。感じ方は人によりけりだが、待ち時間を基準に考えているのだから、待った後の”見返り”も時間を軸に評価してしまう。スイーツを食べるために1年待っても、食べる時間そのものははせいぜい10分程だろう。あっという間に食べ終わる。だから、10分という見返りに対して1年間という賭け時間は「長い」と感じる。1年すべてを待ち時間に捧げているわけでもないのにね。
一方で、ショッピングモールが1年後に出来上がる、と言われるとどうだろう。スイーツ1年待ちに比べると、ずいぶん短く感じられないか。同じく時間を基準にして評価すると、1年間待った後にオープンするショッピングモールには、おそらく今後何年もお世話になる。それに、日用品を購入したりモール内の飲食店で食事をしたりと、使途の幅も広い。ショッピングモール1つが日常生活へ与える影響は凄まじいのだ。であれば、1年待つくらい何のことはない。
しかし、こういう現実に即した時間にばかり囚われているとつい忘れてしまうが、文化史などを遡ってみると視野は広がる。50年、100年前につくられた建築物や文学作品でも、今なお色褪せない不朽の名作はいくつもある。教科書にも出てくるような文豪がつい50年前まで生きていたのか…と感嘆してしまう。自分の祖父母は同じ時代を生きていたわけですしね。そう考えると、半世紀単位の年月でさえも、家族を通じて過去の偉人と間接的に繋がっているような気がして、どこか現実味を帯びてくる。
そうしてどんどん遡っていくと、200年、300年もそう遠くない過去に思えてくるのだから恐ろしい。現代では時代劇というエンタメの括りに入っていますが、今と連続した時間軸上に確かに存在した現実だ。つい先頃まで、敵討ちという大義名分のもと日本人同士で命を奪い合っていた。今は随分と平和な世の中になった…のだろうか。表社会では治安を守るために法整備が進む。けれど、ネットでは毎日のように炎上・批判騒ぎが起きている。徒党を組み、性質の異なる個人や集団を敵と見なして徹底的に抹殺しようとする性は、結局何も変っちゃいないのだ。