週刊日記:僕は海賊でも聖徳太子でもない
◆バイキング
友人とバイキングに行ってきた。残念ながら海賊ごっこをしてきたわけではなく、食べ放題の飲食店に行ったというだけのこと。ズラリと並んだ数々の料理を、我先にと客同士が取り合う様は、さながら賊同士の争いっぽくもありますが。
代金は先払い制。ディナー料金の1980円を人数分支払うと、テーブル番号の書かれたプレートを渡される。帰る際に、そのプレートを受付横のトレーに入れて退店すればよいとのこと。
食事を済ませ店を出ようと思ったのですが、どうも心に引っ掛かるモノがある。僕も友人らも、気づけば受付の近くでキョロキョロと辺りを見渡していた。一体何をしているのかと言うと、本当にプレートをトレーに入れただけで退店していいのか?と不安になっているのだ。食い逃げをするかのような後ろめたさを感じる。システムを頭では理解していても「退店時に会計をする」という通過儀礼に慣れているものだから、その過程がカットされると狼狽えてしまう。作動していないエスカレーターを上り下りする時の違和感と似ている。モヤモヤした気持ちで店を後にしましたが、もちろん食い逃げにはなりませんでした。
◆聖徳太子
「聖徳太子はこの髭を生やした人物ではなく、実は隣の2人のいずれかだったのだ」「そもそも聖徳太子は実在しなかったのだ」と、彼は存在の不確実性を指摘されがちだ。聖徳太子が存在しなかったとすると、史実に何らかの影響は出るのでしょう。僕にはその大小は計りかねますが、実在であろうと架空であろうと聖徳太子という存在は必要なのだ。
大勢の人から同時にやんややんやと言葉が飛んできた時に「おいおい、俺は聖徳太子じゃないんだぞ〜」という鉄板の返しがある。太子は何人もの発言を同時に聞き取った、という逸話に由来するのですが、彼の認知度の高さゆえ成り立つユーモアだ。彼が存在しなければ「おいおい、俺には何人もの発言を同時に聞き取る能力はないんだぞ〜」なんてつまらない表現になってしまう。
しかし、聖徳太子ではなく「厩戸王」の名で日本史を勉強している昨今の子たちは、複数人の話を同時に聞き取ったという逸話を認知しているのだろうか。していないのであれば、もはや彼らの中には「聖徳太子」も「複数人の話を同時に聞き取ったらしい人物」も存在しないことになる。すると、議論の余地もなく「聖徳太子は実在しなかった」ことになり、しかも「実在しなかったことを誰も認知していない」という状態になる。こうして過去の偉人たちは姿を消していくのかもしれない。
◆eスポーツ
僕は断言できる。eスポーツはスポーツである、と。理由は単純明快。スポーツ全般に興味のない僕が、eスポーツにも全く興味を持てないからだ!極めて主観的。ゲームは好きですし、RTAなど競技性のあるプレイを見るのも大好きだ。けれど、ひとたびeスポーツの括りに入ったものはまるで興味がわかない。プレイヤーが「選手」になった途端、顔も名前も覚えられなくなる。一体なんなのだ、僕の中にあるこの極端な区別は。よほどスポーツが憎いのだろうか。
2024年10月第四週。
お疲れさまでした。ではまた来週。