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第47話「ドバイを断り、CAスクールへ」

失恋、あんなに嬉しくて、天にも昇るような舞い上がった気持ちが、一瞬で崩れ去り、ただ絶望と、胸が締めけられるように苦しくなって、少し気持ちがおかしくなった。

極端な書き方をすれば、自殺したいと思うこともあったし。何か強い刺激を持って、胸の中に空いた大きな空洞を埋めようとした。結局、このどうすることも出来ない感情と戦うために、夜な夜なカジノへ行った。

いつも最低かけ金が50ペンスのルーレット台に乗り込み0から36までの番号の上に5枚のコインを置く。調子が良い時は一晩で350ポンド勝てた。そう言う時は、もうけたお金から2,30ポンド抜いてホームレスの女性に渡した。その女性は冬の凍えそうに寒い夜でもカジノの側に寝袋を引いていた。恐らくカツヒロのような気前の良いお客から、時々、おこぼれを貰えるから深夜の時間帯にその場を陣取るようだ。

一方、調子の良い日が2日続くと、今度はダメな日が訪れる。ここまで負けてしまった分を取り返そうと、500ポンド(約10万円)を一点張りで黒にかけて大負けした。それを2回経験した時にカジノ通いを卒業した。

本当にこのままでよいのか?今は、毎日、大学の図書館と自宅との往復をするだけの毎日。

5月末までは、授業があって17名のクラスメイトと直接会えたから寂しく感じる事は全くなかっけど、9月からは、もうクラスはない。あるのは2週間に1回、修士論文の担当Tutorのマークさんと進捗チェック。大体15分から30分かけてフィードバックしてもらう。

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※ノーザンブリア大学の同級生の写真

同じロングハースト・キャンパスで仲の良かった唯一の日本人、裕子さんもバーミンガムに引っ越してしまった。彼女はMBAを学んでいたのだが、カツヒロと同じバスでシティから通学していた。ニューカッスルに住んでいた時にカツヒロがたった一人、人生について相談できる相手だっただけに、いなくなってしまった時は本当に寂しかった。

とにかく、マイナスのエネルギーをプラスに持って行こう。今は、その負のエネルギーを全て修士論文の制作にぶつけよう。「こういう長くてしんどい作業は時間をかけずに一気に終わらせてしまった方が案外良い作品が出来る。」と思って3か月で卒論を終わらせる目標と立てた。

ラッキーだったのは、バレーボールが週2回あったから、その時は思いっきりストレスを発散できた。11月終わりにヒルトンカップ(ホテルチェーンがスポンサー)と言う大学対抗戦があり、北イングランド地域8チームと総わたり戦が行われ全勝で優勝した。身長2メートルのボリスやポーランド代表(ナショナルチーム)のラファールが加入したおかげで選手層が厚くなり超攻撃的なバレーボールで勝ち取れた。

カツヒロは、バレーボールチームの優勝打ち上げパーティーの翌日に日本へ帰国した。修士論文はA4で111ページにも及び、「もう二度とこんなに多くの英文を書かないぞ」と心に決めた。結果は50点でパスした。

成田上空

1998年12月21日に日本に帰国したカツヒロは、某大手航空会社系列の旅行会社からドバイ支店の立ち上げをやらないか?と誘われていた。先方の都合で24日のクリスマスイブに新宿で面接を受ける事になった。

そもそもきっかけは、東急観光の先輩、鱸がロンドン支店の転勤となり、現地で食事をした事だった。

「カツヒロ、お前に良い話があるんだけど。」

「はい。」

「お前、もう一回、旅行会社で働かないか?

「えっ、正直そのつもりはないですけど・・・。どんな内容ですか?」

「ドバイで旅行会社の支店を立ち上げる仕事なんだけどな。大学時代のラグビー部の先輩経由で、誰か英語が出来る若い人材を知らないか?と言われていて、お前が適任じゃないかと思ったんだけど。」

「ありがとうございます。私は客室乗務員になりたいと思っていますが、海外移住にも興味がありますので、そのお話を取り次いでいただけますか?」

カツヒロは、鱸の面子もあるだろうと思ったので、直ぐに断る事はせずに、まずは一度話を聞いてから判断しようと思った。

「そうか。それなら良かった。後で詳細をメールするから頑張れよ。」

鱸はほっと胸をなでおろし、上機嫌で中ジョッキのビールを飲みほした。

「ありがとうございます。」

・・・。

12月24日、旅行会社の海外事業部長と総務部長、それと鱸の先輩に当たる海外ツアー企画課長の3人がカツヒロを迎えてくれた。

「はじめまして。武藤カツヒロです。」

「武藤さん、本日は遠い所からお越し頂きありがとうございます。どうぞ、そちらにおかけ下さい。」

「はい、ありがとうございます。」

簡単な世間話をした後、本題に入った。旅行会社側の要望は、「日本発のドバイステイツアーにおける現地オペレーションをする為の会社を1から立ち上げて欲しい」という事だった。

当時は未だ日本とドバイの直行便は飛んでおらず、シンガポールまで全日空が担当し、そこから先はシンガポール航空に乗り換えてドバイにステイするプラン。リゾート地としてのドバイの知名度もそれ程、高くなかったが、それでもこの半年間で250名の日本人ツアー参加者を現地に送ったそうだ。

今までは、提携先の現地旅行会社にオペレーションを依頼していたが、日本人の細かな要望やトラブルにきちんと対応しきれていなかったようで、クレームも多かった。それで、現地に日本人を置いてしっかり対応出来るようにしようと考え、若くて、英語で出来て、旅行業界を理解している人間を探していた。

「武藤さん、極論を言えば。あなたがOKしてくれればGOサインは出します。シャリフという王族が経営する一大ビジネスグループがビザの手配から駐在で必要な社宅、運転手、メイドの準備なども全てやってくれます。」

「はい。」

カツヒロは海外事業部長の熱意に押され気味だった。

「正確な雇用条件は、この後、シャリフ側と交渉しますが、少なくても年俸でUS5万ドル以上。年に1回はビジネスクラス又はファーストクラスで日本へ帰国する航空券代と社用車は付きますから、27歳のあなたにとっては悪く条件だと思いますよ。」

「はい、ありがとうございます。返事は両親と相談をした上でお伝えしたいと思いますので、2,3日時間を下さい。」

「わかりました。それでは、お気をつけてお帰り下さい。」

「ありがとうございました。失礼いたします。」

カツヒロは、最後に深くお辞儀をし、その場を去った。

予想していたよりも、雇用条件は良さそうだし、仕事も大きくて面白そうだ。だけど、やりがいは大きい反面、責任も重い。タフな仕事だよな。帰りの電車の中で、OKを出してしまおうか?それとも、きっぱり断るか、ずいぶんと悩んだ。

カツヒロは、自宅に戻り両親にドバイの事を話した。すると、母が中東は危険な場所だから、行かない方が良いと強く主張した。母の意見はある面正しく、ドバイ自体は中東地区の中でも安全な国と言われてはいるものの、第一次湾岸戦争を起こしたイラクのサダムフセインは健在中。中東一帯で1948年から73年までに4度も大規模な戦争が起きている。

常に宗教観が異なる民族同士や石油利権が対立する地域は戦争や内戦状態に陥りやすい。そのような危険な地域にに大事な息子を住ませる事は大きな不安にしかならない。

「お母さん、今、ドバイは観光開発にもの凄く力を入れていて、いずれ石油が枯渇した時のために、今後は観光で外貨を稼ごうとしているんだって。」

「へ~、そうなの。」

「それで、今、5つ星のホテルがどんどん建築されていて、日本人スタッフも雇われ始めているんそうなんだけど、まだ、人数が少ないだって。リゾートホテルをたくさん立てて世界中から観光客を呼び寄せようとしているんだよ。」

カツヒロは旅行会社から聞いた話を、そのまま繰り返した。

「ふーん、中東といったら石油しかイメージがわかないけど、でもね。今、無理に行かなくてもいいんじゃないの。あなたは、別にアラブの国が好きとか、大きな興味があるとかないんでしょ。」

「うん。東急観光の先輩経由で、この話は来たので、話を聞いてみたらスゴク良い条件だから、やってみようか?と気持ちが湧いてきたんだけど。」

「まあ、一晩、ゆっくり寝てから、もう一度、改めて考えてみなさい。お父さんも私もあなたが幸せになってくれればそれだけで満足だから、自分の気持ちに正直になって結論を出して見なさい。」

「ありがとう。もう少し将来の事をじっくりと考えてみるよ。おやすみなさい。」

初めてカツヒロが海外に留学したのが8年前。19歳だった少年も、メルボルンで10か月、イギリスで3年生活して来た。マモルとマキは息子の成長を感じつつも、普段、全く情報が入らないドバイという国に住むことは賛成できないようだ。

時間をかければ説得できるかも知れないけど、本当にその仕事がしたいのか?単なるお金目的だけなら別にドバイでなくても良いはずだ。仕事はやってみないと、それが面白いのか?つまらないのか?分からないけど、やると決めたら責任も伴うから簡単にウンとは言えないな。

カツヒロはその晩、布団の中で自答自問した。そして、結論を出した。

悪い話ではないけど、やっぱり自分がやりたい事は、フライトアテンダントになる事だから、ドバイは諦めよう。

カツヒロは翌日、担当者に電話をして正式にオファーを断った。電話口で感じ取った相手の声は、残念さがにじみ出ていた。

「そうですか、それは本当に残念です。・・・ですが、仕方ないですね。それでは、失礼いたします。」

最後は少し事務的な口調で電話を切られた。

もう、迷うのはよそう。鱸さんにはお世話になった義理はあるけど、自分にはフライトアテンダントになるという明確な目標があるのだから、それに向かって突き進もう。

カツヒロはスチュワーデスマガジンの広告欄に出ていたスカイビジネススクールというCAスクールに通学することに決めた。場所は高田馬場で通学するのに片道2時間半かかる。シンガポール航空の元CAだった女性が始められた学校で特に外資系CAの合格者実績がウリのスクールだ。

年末にそのスクールの見学と入学手続きを済ませ、1月第2週から週2日、2時間ずつのレッスンを受ける事になった。


つづく。

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