< か > か

自分がその渦中にあるとき、人は、それをクリアな視点で見ることができない。だから、大切な人が渦中に陥ったとき、あるいは、そこからさらに遠くへと行ってしまったとき、「現実とは、このようなものなのだな」と悟る。

彼は、やさしく、穏やかで、NOと言えない人間の代表だった。彼の淹れたコーヒーは、どんなときに飲むコーヒーよりも、淡泊で、苦みがなくて、香りも強烈ではなかった。ただ、静かな香りがした。

それは、人柄をうつしてなどいなかったかもしれない。日頃の鍛錬のたまものだったかもしれない。原因がどうであれ、コーヒーが苦手な私が、唯一、ブラックで飲めるそのコーヒーだった。

夕方があったのかなかったのか分からないまま、闇が訪れ、細い雨が降っている。車が、水たまりを跳ね上げていく。

この現実世界に、なにか出来事が起き、それにひとりの人間が、勝っただの負けただの、という議論がほうぼうにある。だれは心が弱かったから、いじめに負けて転校しただの、かれは根性があったから、つらい仕事でもここまでやってこれただの。

なにか出来事が起きて、ひとりの人間が負けてしまったとき、「彼(彼女)は、そんなにも弱かったのだろうか? だから、負けてしまったのか」という疑問が湧きおこる。その立場に置かれた人間が、自分にとって大切な人であればあるほど、その疑問は幾重にも渦をまいていく。

弱かったのか? 生まれつきなのか? 育ち方がよくなかったのか? 自分が守っていれば、つよさを分けていれば、勝てたのか?

決定的な答えなどない、と結論づけるまでに、相当に時間がかかる。彼(彼女)が大切な人であればあるほど、その人がいまいる場所が遠ければ遠いほど、疑問だけが渦まきつづけ、そこへ後悔も混ざり、結論などつかない。

だが傍目では、このことは明らかだ。決定的な答えなどない。

彼(彼女)が完全なる敗北を喫してしまったとしても、それは、その人が人類の歴史で稀にみるほどの弱さだったから、ということを意味しない。弱いか、強いか。それを考えるときの重要な要素が、抜けている。それは、相手の強さだ。

たとえ、出来事の荷重に耐えられずに負けたとしても、その重さが大きすぎれば、誰がおなじ立場に立ったとしても、誰ひとり勝てない、ということもありうる。たとえば、ホロコーストで命を落とした人々は、生き残った人々より強靭さがたりなかったのかといえば、大の男の大人だって前者に含まれただろうし、とにかく、一概には言えないのだ。

相手の強さも要素。相手の強さの種類や、こちらの弱さの種類もまた、要素。「彼は弱かった。だから負けた」なんて、論理的なようでいて、論理など皆無だ。

ホロコーストの例は、極端だろう。彼がうつ病になったのも、それが元で自殺したのも、外国でもなければ戦時でもない。この平和な日本なんだろ?

はっ。ばかばかしい。

どんな状況であれ、その状況を他人が経験することはできない。おなじポジションに就いても、難なくこなす人間もいれば、1日もたない人間もいる。べつの人間が就けば、周りの人間の反応もまた変わってくる。本当に、人生は、それぞれに1つ。みちすじ1つ。

弱い自分と、強い相手(出来事)。その状況が苦しいなら、訓練して強くなれば、勝てる。勝てないなら、助けを求めればイーブン。助けも求められないなら、逃げれば少なくとも負けずに済む。それを「負け」だと見る人もいるけれど、勝ちか負けか、議論する余裕があるうちは、ほぼ勝ちだ。

負けは、死だけだ。

何度淹れても、自分で淹れるコーヒーは強烈に苦くて、後味もよくない。それでも、くりかえしているうちに、少しは穏やかなコーヒーになった。いや、なんの変わりばえもしない。いつまでたっても。

きっと、やさしいコーヒーを淹れてくれと、大切なだれかが言ってくるまで、私の淹れるコーヒーはこの苦さなのだろう。自分の問題は、ミルクを入れれば、それで済んでしまう。やさしいコーヒーを淹れる目的が、ひとつもない。目的がなければ、淹れることもない。

求められれば、淹れる努力をするかもしれない。そうやって、水が地形にそってかたちを変えながら低い方へと流れていくように、必要があって行い、必要がなくなってやめる。すべて、状況と、それへの対応が、連続しているだけ。

ここが彼のいなくなった世界であることを、闇は隠し、雨が耳をふさぐこんな夕暮れは、だれもが平等に、手にはなにも持っておらず、記憶もなく、つながりもなく、ただこの身だけが存在しているかのような幻想を、抱かせる。

そうやって私の脳は、幻の安心感で、自分を守っている。



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