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哲学がなぜ好きなのか

哲学は腕時計みたいなものだ。

時間を知るだけなら、スマホで構わない。

でも、腕時計が時を刻むように、哲学は私たちの心の時を刻む。

生きる意味の問いを前にするとき、心の時が動き出す。その針がカチリ、カチリと確かに律動するリズムが聞こえる。それを感じる瞬間、私はこの限りある生命の味わいを噛み締めることができる。

私たちは腕時計を持って生まれてこない。その結果、100円ショップで売っているような世界観を引っ提げて大通りを歩くことになる。

プラスチック製の針は、平時には十分かもしれないが、人の死や戦争、人生にまつわる様々な不条理に直面したときにあなたを支えてはくれないだろう。

哲学を知らなくても、ばあちゃんの家にあった古い懐中時計のような、祖先伝来の人生訓を携えて一生の支えにする人もいる。もちろん、それもまた素晴らしい人生だと思う。だがやはり私は、借り物の時計では満足できない。

哲学を学ぶとき、私たちの目的は何か? 自らのために、自分自身で時計をこしらえることだ。

ミヒャエル・エンデの「モモ」より

ミヒャエル・エンデの「モモ」には、夥しい数の時計がずらりと並んだ時計屋さんをモモが訪れるシーンがある。図書館にある哲学コーナーを覗くたびに、こんな気分になる。

そこには過去の素晴らしい時計職人たちがものしてきた、芸術作品のような世界観が並んでいる。この世界と自分の人生についての終わりなき問いかけの反復運動の歴史。私たちは彼らの時計を分解し、そのダイヤルや針、ムーブメントに至るパーツの一つ一つの中から、気に入ったものを盗み取ることができる。

哲学者によって、時計を作る素材は様々だ。木や鋼鉄、プラスチックや合金、あるいは大理石など、あらゆる物質が時計の素材になるように、哲学者は自らの「言語」という素材を、独創的に選び取り、最新の注意を払って研ぎ澄ましていく。なぜなら哲学者が用いうる唯一の素材は「言語」であり、その種類がその哲学の性質を決定するからだ。

私の好みとしては、ハイデガーのような「木彫りの時計」に親近感を覚える。彼は、ドイツの日常に根ざした素朴な語彙を彫琢することで、存在についての極めて独創的な問いかけをし続けた。一方で、ラッセルのような数学的厳密性を追求した哲学は、あたかも鋼鉄製のムーブメントを思わせる。その比類なき分析には金属の光沢が宿るが、私としてはもう少し人肌暖かい部分が欲しくなってしまう。

私は哲学が好きだが、職業としての哲学者になろうとは思わない。なぜなら、私の目的は自分の腕時計を作って自らの命のリズムを刻むこと、それだけだからだ。過去の時計職人が作った腕時計の目録を作ることではない。

ただし、時計工房を訪れることには、やはり意味がある。それは、ドライバーやワインダーといった、完成品の時計を見ているだけでは決してわからない「時計を作るプロセス」についての教訓を私に与えてくれるからだ。だから私は人から哲学を学ぶことは、自らの哲学を作る上で欠かせないプロセスだと思う。

哲学の特徴、それは永遠に終わりが訪れないことだ。時計が何度も何度も同じ場所を通っては時を刻み続けるように、哲学は終わりのない問いを反復し続ける。問い続けるのをやめた時、たとえ私の生物としての心臓が動いていたとしても、やはり私の心の針は止まるのだ。

私が存在しているというこの事実。この事実を無意識下で絶えず思い出させてくれるのは、哲学という腕時計が鳴らす、やむことのない、心地よい反復運動のリズムだ。

自らの命のリズムを、自らの手でこしらえた腕時計で刻むということ。私の趣味であり、私の一生の生きがいになるだろう習慣。

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