「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対する自分なりの回答。
どうして、ある人にとっての善が、ある人にとっての悪になるんだろう?
こんな問いをずっと抱いてきた。
この世界に絶対的な善や、絶対的な悪なんて存在するんだろうか、もしそれが存在しないとしたら、ドストエフスキーがイワンを通して語ったように、「人は何をしても許される」んだろうか?
僕らは多様な人生の旅路の中で多様な価値観に出会う、その中でやがて「人にはそれぞれの善悪の基準がある」ことに気づく。その過程で、「人それぞれに善悪の基準は異なるんだよね」っていう「相対主義」という考えがどうしてもメジャーになってくる。
つまり、無限通りの価値観に紐づく無限通りの善悪。だけどそんな世界観、なんとなく危険な気がする。
じゃあ人って殺していいの?
嘘ついていいの?騙していいの?
こういうクライシスの中出会うのが、「倫理学」という学問。日本の高校の授業で習う「倫理」は実際は西洋哲学史の別名だが、ここで言う「倫理学」はガチモンの倫理。極限状況の善悪を問う学問。例えばトロッコ問題。99人を救う代わりに1人を犠牲にすることは正当化されうるのか、みたいな話。人類史の中で覇権を競ってきた、大きく分けて「四つ」の倫理観が紹介される。
定言命法:あらかじめ神が決めた絶対的なルールに従う(イラン)
功利主義:最大多数の最大幸福を生むような選択を計算する(アメリカ)
徳倫理学:人間としての「正しさ」を哲学的に追求する(フランス)
共同体主義:共に生きる他者の心に寄り添う(日本)
これらの四つのルールが導き出す結論はそれぞれバラバラだが、それなりに説得力がある。そして、どのルールを取ったとしても、人間をそう簡単に殺していいことにはならないし、嘘ついたり騙したりすることはそう簡単には許容されない。つまりこのルールのどれかに従っていれば、ある程度秩序ある社会がそこに出来上がる。「人それぞれ異なる善悪の基準があるよね」と言ったときに思い浮かべるようなカオスは訪れず、枕を高くして寝られる。
つまり現状人類が発見した「秩序ある社会」言い換えれば「コスモス」を構成するための基本プログラムは上記四つであるということ。個々の人間が抱く倫理観はこれらのバリエーションにすぎず、言ってみればこれらの「コスモス基底」1, i, j, kによって張られる四元数の一個に過ぎないと言える。それ以外の基底、例えばαをどこかから持ってきたヤツがいたとしても、それによって張られる秩序は倫理空間として意味をなさない。この世界には複素数、四元数、八元数、(強いて言えば十六元数)までしか意味のある数体は存在しないのだ。どんなオリジナルな倫理思想であっても、結局はこの基底のブレンドに過ぎない。
その意味で、一個の善悪の基準に固執するイデオロギーは狭い、一方であらゆる善悪の基準を許容してしまう相対主義は粗い。中道としての「多元主義倫理」あるいは「四元主義倫理」こそが、もっと僕たちが知るべき思考原理だ。
数学的な脱線はさておき、ここでこれらの「四つのルール」の背後にある「論理」に迫りたい。渡邊雅子『論理的思考とは何か』によると、イラン、アメリカ、フランス、日本における教育で用いられる「作文」形式に読み取れる論理形式は、それぞれ異なる「価値判断」に紐づいた異なる「論理」に基づいている。そしてそれらの四つは、奇妙なほどに四つの「倫理」と符号している。
法技術の論理:真理の保持を目指す「エンシャー」(イラン)
経済の論理:効率性・確実な目的の達成を目指す「エッセイ」(アメリカ)
政治の論理:矛盾の解決・公共の福祉を目指す「ディセルタシオン」(フランス)
社会の論理:共感を目指す「感想文」(日本)
詳しい解説はこの本に譲るとして、ここからわかるのは、我々が唯一絶対だと思っている論理は、これらの多元的な価値判断、つまり「倫理」の基盤の上に乗っかっている構造物に過ぎないということだ。じゃあ、倫理の根源にあるものは何か? それは結局のところ、「私」という存在をどう捉えるかということではないだろうか。
法技術の論理:神の絶対法則にひれ伏す存在としての自分
経済の論理:諸々の「行動」の束としての自分(プラグマティズム)
政治の論理:独立した「コギト」としての自分(理性主義)
社会の論理:共感と「情緒」の束としての自分、他に生かされている自分
上記の分類は仮説に過ぎないが、少なくともそれぞれの論理=倫理の背後に、異なる「我」のあり方が顔を覗かせていることに間違いはないだろう。つまり、人間の倫理観と「我」のあり方の間には、一蓮托生の結びつきがある。
この考察は結局のところ、「なぜ人間は善悪を守る必要があるのか?」という疑問へのラディカルな回答にたどり着く。
それは、倫理を基底する様々なルールが、「私」という自己認識をあらしめる根源的なメカニズムと同一だからだ、という回答だ。つまり、私がたとえば無目的に殺人を犯すことでそのルールを破って「倫理空間」に亀裂を入れることは、「私」という概念そのものを根源的に揺さぶって不安定化してしまう。行き着く先は「カオス」ではなくむしろ「虚無」だ。なぜか? 「私」が崩壊したその先に見るものは、「虚無」しかないからだ。人間はその虚無の深淵を前に、「私」であり続ける強さを持たない。「考える葦」としてのか弱い人間は、立ち続けることができない。その絶対零度の空間は、我々の意識が棲むにはあまりにも冷たすぎる。だから人間は、「私」という場所、暖かさに包まれた故郷、つまり倫理空間に、戻って来ざるを得ない。ドストエフスキーが「罪と罰」で描いたのは、この旅路ではなかったか?
この世界を取り巻く圧倒的な虚無、ちっぽけな「我」はその上に浮かぶ小舟。少しオールを漕ぐ手を緩めて水面を覗き込めば、そのさざなみの向こうに朧げに浮かぶ自分の姿、その奥に広がる深淵が目に映る。パスカルはその「慄き」の中に、虚無への戦慄の中に、根源的畏怖の中に、人間の本性を見出した。三木清もそれに続いた。彼らは虚無を見ていたが虚無主義者ではなかった。この世界の虚無を見つめながら、でもそれに抗うその姿勢の中に人間としての生命を生きた。アルベール・カミュのように。
矛盾の緊張なき思想は思想ではない。アナーキーとファシズム。虚無と充溢。正極と負極の間にしか「電荷」が発生しないように、秩序と無秩序の間にしか「生命」は発生しない。アナーキズムに憧れていた僕は、このことを知らなかった。カオスなきコスモスが人間を窒息させるのに対し、コスモスなきカオスは人間の存在を消しとばす。両極の併存以外に人間の生きる道はない。
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