名作のゾンビ化、晩節と大団円
某アイドル漫画の結末について賛否が取り沙汰されている。
作品をまだ読み終えていない私には結末を論じることはできないが、
得てしてこういう時にSNSというヤツは作品の批評に作者の人間性まで絡めたがる。
個人的には作品(漫画に限らない)と作者は切り分けて批判されるべきだと考えている。
一方で、作者の人生の起伏や人間性が作品に反映されることは珍しくなく、その観点での考察は作品の面白さを深掘りすることに時に有効である。
作家の人生観や性質が作品に影響する一方で、
作品は読者の人生観や性質に影響を及ぼす。
実は幼少期から漫画が大好きで、
実家にはそれなりの蔵書が残っている。
そして、これまでの人生で何度か漫画に背中を押されたことがある。
特に大きな影響を受けた漫画のひとつが、
「もやしもん」だ。
もやしもんとは、農業大学を舞台にした2004年連載開始の青年漫画だ。
当時中高生だった私はこの漫画で理系、特にバイオサイエンスの道を志すに至った。
その他にも人生観にいくつかの影響を与えてくれた作品でもあるが、それはまた別の機会に聞いてほしい。
そして、連載終了から10年を経て、もやしもんの続編が始まるらしい。
正直言って、とても不安である。
漫画の続編というものは、得てして「失敗」する印象が強い。
失敗の評価基準はいくつもあるが、「前作を知る読者からの評価」に焦点を当てて話していく。
なぜ、続編は前作を知る読者からの評価が得られないケースが多いのか。
理由は大抵「時間が経ったから」である。
時間が経つと、作者と読者双方の価値観が変化している。
当時少年少女だった読者が、デビューしたての作者の熱量で描かれた作品に強く揺さぶられた気持ちは、十数年経った今ではもう再現が難しい。
ここに、時代の変遷による社会的な価値観の変化も加わる。
作品、特に連載漫画がヒットする要因は社会的な要素がかなり大きいと感じる。
つまり、「時代に合っている」からヒットすることがどうしても多い。
そこに、いわゆる「おもいで補正」も加わると、
当時の評価に相当する期待値というのは、相当にハードルが高い。
私が少年時代に熱狂した漫画作品は時を経ていくつもリバイバルしたが、
十分に評価された例は少ないように思う。
それであるのに、今もなおリバイバルは後をたたず、
近年は平成初期の漫画をアニメ化する形での「焼き直し」も増えてきている。
これは商業的には止められない流れなのだろうが、
人生を締め括った作品の大団円ないしは作者の晩節を汚しかねないリバイバルはいち読者として受け入れ難いものもある。
だがしかし、こういったいわば作品のゾンビ化は、
ある種のリベンジを内包しているケースもある。
自らの作品の結末に対するリベンジである。
こと連載作品においては、大団円は難しい。
近年は幾分改善されたように思うが、
連載作品が商業的理由で終わりどころを見失うことや、
不本意な節目で終わることは珍しくない。
そういった非業の死を迎えた作品により良い結末をもたらす可能性があるのも、作品のゾンビ化の無視できない要素だと感じる。
ただ、大抵はより凄惨で晩節を汚すばかりの結末を迎えることが多いため、個人的にはゾンビと呼んでいる。
個人的には、どんな締めくくりであれ完結した作品は美化されたままそっとしておいてほしい性分であるため、
作品のゾンビ化はまさに墓荒らしそのものである。
より良い結末を迎えること、
そして結末を迎えたものに手を加えることの難しさには、
身をつまされる日々である。
話がぐるりと回って冒頭の「作品の結末」に話が戻り、
伏線が回収できたところでこの話を締める。
めでたし、めでたし。
サムネイル
「イエスの復活」ラッファエリーノ・デル・ガルボ
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